桂小五郎 宛(慶応二年一月三日) 坂本龍馬の手紙 原書と現代文翻訳

桂小五郎 宛

原文
広沢先生および山田先生の方にも万々よろしくお頼み申し上げ候。再拝。改年賀事御同意、御儀存じ奉り候。然るにお別後三田尻のほうに出かけんとするところ、井上兄よりお噺おき候て、すぐ下の関に罷り帰り申し候。かねてお示しのごとく越荷方久保松太郎先生にお目にかかり、止宿のところお御頼み、すなわち阿弥太寺伊藤助太夫方にあいなり申し候。これより近日長崎に参り、またこの地に帰り申すべしと存じ居り申し候。いずれその節またまたおはなしもうかがい候。まずは早々、拝稽首。正月三日 龍馬木圭先生足下追白、井上氏に送り候手紙、ご面倒ながらよろしくお頼み申し上げ候。木圭先生虎皮下龍
現代文
広沢真臣先生及び、山田宇右衛門先生にも万事宜しく御頼み申し上げます。あけましておめでとうございます。お別れした後に三田尻へ出かけようとしたところ、井上兄(井上聞多)が話をつけておいてくれましたので、すぐに下関へ戻りました。以前からお話のように越荷方(藩の商社:米相場を見て大阪で売買する部署)の久保松太郎先生(長州藩士)に会い宿泊先を頼んだところ、阿弥陀寺町の伊藤助太夫方に泊まることになりました。近いうちに長崎に行き、またこの地に戻ってきます。いずれその節にまたお話を伺いたいと思います。正月3日龍馬木戸先生(木戸孝允)追伸井上氏に送った手紙をご面倒ながら宜しくお願い致します。木戸先生龍馬

出典:原文は宮地佐一郎編『龍馬の手紙』(講談社学術文庫)によります。現代文は、運営者がこの原文をもとに独自に訳したもので、解説も運営者が書いています。

目次

この手紙について

長州の桂小五郎へ宛てた年始の手紙です。広沢真臣や山田宇右衛門への挨拶を託しつつ、別れたのち三田尻へ向かおうとしたものの、井上聞多が話をつけておいてくれたので下関へ戻ったこと、越荷方の久保松太郎に宿を頼んだところ伊藤助太夫方に泊まることになったことなどを、こまやかに報じています。新年を長州の同志たちと過ごす龍馬の日常がうかがえます。

宛先「桂小五郎」とはどんな人物か

長州藩の指導者・木戸孝允です。龍馬にとって薩長同盟以来の盟友であり、年始の挨拶や身辺の動きまで気安く伝え合う間柄でした。

この手紙が書かれたころ

下関を拠点に、長州の要人たちと親密に交わっていたころの龍馬です。井上聞多ら長州の若い志士とも肩を並べ、倒幕へ向かう長州の内側に深く溶け込んでいました。この年、倒幕の機運は一気に高まり、やがて大政奉還と王政復古へと時代は急展開します。年明けの静けさの底で、大きな政変への力が蓄えられていました。この年、土佐藩はついに時代の中心へと動き出します。龍馬は長州との絆を保ちつつ、故郷・土佐を巻き込む次の一手へと目を向けはじめていました。

正月三日、長崎へ発つ前の下関の宿

手紙の日付は「正月三日」だけで、宮地佐一郎はこれを慶応三年のものと比定しています。宮地の本には慶応二年一月三日付の久保松太郎あての短い手紙もあり、そこでも龍馬は桂小五郎あての別封を久保に託していますが、本状はその一年後の一通です。宛名の「木圭先生」は桂の字を二つに分けた呼び方で、宮地は原本を宮内庁の木戸家文書としています。

前後の手紙を見ると、慶応二年十二月二十日付の伊藤助太夫あてで溝渕広之丞を早く長崎へ帰したいと頼み、慶応三年一月十七日付の伊藤あてでは「九日下の関を発ス。同十一日長崎港の口に来る」と報じています。本状の「近日長崎ニ参り」はこの旅立ちを指すとみられます。続く一月十四日付の桂あてでは、後藤象二郎と話し合ったことや、土佐に一新の兆しが見えることを伝えています。下関市の観光ガイドによると、龍馬はこの年、長崎から妻お龍を伊藤邸に迎え、下関を活動の拠点としました。

同じころの薩摩—四侯を京都へ

薩摩の動き 孝明天皇の死と新しい天皇の即位を受けて、慶応三年(1867)の初め、薩摩の西郷隆盛・大久保利通らは、有力な大名たちを京都に集めて政治の主導権を握ろうと動き始めました。島津久光を中心に、越前の松平春嶽、土佐の山内容堂、宇和島の伊達宗城を京都へ呼び、将軍慶喜と話し合わせる計画です。この「四侯会議」はこの年の四月から五月にかけて実現します。

龍馬と桂 長州の桂小五郎にとって、この動きは長州の処分を軽くするための大切な機会でもありました。龍馬はこの手紙で、薩摩と長州、そして土佐の動きを桂に伝えています。

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