森玄道・伊藤助太夫 宛(慶応二年八月十六日) 坂本龍馬の手紙 原書と現代文翻訳

森玄道・伊藤助太夫 宛

原文
さし出し候使の者ハ小曽根英四郎の親類入木や重平番頭の者、与平と申もの、何か此者ニ御尋被成、又用向御申聞被遣度奉願候。十六日頓首龍馬森様井藤様井藤助太夫様早々龍馬其後ハ益御勇壮龍馬左右八月十六日森玄道様井藤助太夫様
現代文
そちらに向かわせた者は、小曽根英四郎の親類「いりき屋」重平の番頭で、与平というもの、何かあればこの者にお尋ね下さい、また、御用もあればこの者にお伝え下さいませ。16日 龍馬 森様 井藤様(その後ますますご壮健のことと存じます)龍馬

出典:原文は宮地佐一郎編『龍馬の手紙』(講談社学術文庫)によります。現代文は、運営者がこの原文をもとに独自に訳したもので、解説も運営者が書いています。

目次

この手紙について

「使いにやった与平という者(小曽根英四郎の親類の店の番頭)に、用があれば何でも尋ね、伝えてほしい」と、使者を紹介する短信です。八月十六日付。下関の協力者ふたりに宛てた、日常の連絡の一通です。信頼できる人を介して用事を回す、龍馬の人づかいの細やかさがうかがえます。

宛先「森玄道・伊藤助太夫」とは

坂本龍馬の肖像写真
この手紙の書き手、坂本龍馬(パブリックドメイン)

伊藤助太夫は下関の豪商・船問屋で、龍馬に宿と資金を提供した支援者です。森玄道(もり げんどう)は下関で龍馬に協力した人物(医師とされます)で、ともに龍馬の西国拠点を支えました。

この手紙が書かれたころ

下関を拠点に、信頼できる人を介して用事を回していた時期です。人と人のつながりそのものが、龍馬の活動の基盤になっていました。下関は長州の玄関口であり、西国の情報と物資が集まる要衝でした。志士の活動は、こうした地元の協力者に支えられていました。脱藩浪士の龍馬にとって、藩の枠を越えた人脈が財産でした。下関の商人や協力者との縁が、その活動を陰で支えていました。

小曽根家の使いを、下関へ

宮地佐一郎編『龍馬の手紙』は、この一通を慶応二年八月十六日のものと推定しています。月日は書簡にありますが、年は宮地の推定です。差し向けた使いの者は、小曽根 英四郎の親類にあたる入木や重平の店の番頭で、与平という—その者に何でも尋ねてほしい、用向きも言いつけてほしい、と森玄道と伊藤助太夫に頼んでいます。

宮地の本には、この三日前、八月十三日付で同じ二人に宛てた手紙も収められていて、そちらも小曽根英四郎の件を扱っています。長崎の豪商小曽根家と、下関の本陣伊藤家。龍馬はこの二つの家を、人と金と荷が行き来する道として使っていました。小曽根家は亀山社中に焼物工場の跡地を貸し、のちに海援隊の本部も屋敷に置かせた家です。慶応二年八月といえば、第二次長州征討の戦いが続いていたころで、龍馬はその六月にユニオン号で長州側に立って戦っています。戦のあいまにも、長崎と下関を結ぶ細い糸を龍馬が手放していなかったことが、この短い紹介状から分かります。

同じころの日本—慶応二年八月

世の中では 六月に始まった第二次長州征討(四境戦争)は、幕府軍の苦戦が続いていました。七月二十日には将軍家茂が大坂城で病死し、その死は八月二十日に公表されます。九州の小倉口では八月一日、小倉藩が自ら城に火を放って退き、幕府はもはや戦いを続けられない状態でした。八月二十一日、朝廷から休戦の命が出されます。

龍馬のまわりでは 龍馬は六月の小倉口の戦いで、亀山社中のユニオン号(乙丑丸)を率いて長州側に加わりました。戦いが峠を越えたこの八月、龍馬は下関と長崎を結ぶ船と人のやりくりに追われており、長崎の豪商・小曽根家の使いを下関の伊藤助太夫のもとへ送るこの手紙も、そうした日々の一コマです。

慶応二年八月、長崎の龍馬と土佐、坂本家

小曽根家という後ろ盾

手紙に出てくる小曽根英四郎は、長崎の豪商・小曽根家の人です。兄の小曽根乾堂とともに、亀山社中の活動を陰で支えました。社中の仲間が身を寄せ、資金や物資の手配を頼んだのがこの家です。龍馬は長崎の小曽根家と下関の伊藤家という、二つの港の商家を結んで、人と物を動かしていました。

戦の終わりと将軍の死

この年の六月に始まった幕府と長州の戦いは、長州側の優勢のまま進みました。七月二十日、大坂城で将軍家茂が亡くなります。幕府は家茂の死を理由に兵を引き、九月二日には勝海舟が宮島で長州と停戦の話をまとめました。龍馬は夏の間、乙丑丸に乗って下関の海戦に加わり、戦のあとは長崎に戻って社中の立て直しにあたっていました。

土佐の後藤象二郎

同じ慶応二年、土佐藩の参政・後藤象二郎は、藩命で長崎と上海に出張しています。船と武器を買い入れ、藩の力を蓄えるためでした。龍馬と後藤が長崎で手を結ぶのは、翌年の一月のことです。

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