棚倉城:戦国時代は伊達政宗や佐竹義重が争った地で戦国後期に丹羽長重が築城した城 棚倉城【お城特集 日本の歴史】

棚倉城

棚倉城は福島県東白川郡棚倉町にあった平城です。
戦国時代には伊達政宗や佐竹義重、白川の結城義親などがこの地を巡って激しく争いました。

棚倉城:戦国時代は伊達政宗や佐竹義重が争った地で戦国後期に丹羽長重が築城した城 棚倉城【お城特集 日本の歴史】

戦国時代も終わりに近づくと天下も治まり徳川家康の時代となります。元々越前を領していた「丹羽長重」は幕府の命を受けて「立花宗茂」が治めていた棚倉の地に五万石にて入封し棚倉城を築きます。

寛永四年(1627年)、長重は白河城に移封が決まり棚倉城は多くの大名が入れ替わり城主となります。幕末時の城主は「阿部正静」で棚倉藩は奥羽越列藩同盟に加盟していました。

棚倉城:戦国時代は伊達政宗や佐竹義重が争った地で戦国後期に丹羽長重が築城した城 棚倉城【お城特集 日本の歴史】

慶応四年(1868年)に勃発した戊辰戦争では会津戦争の前哨戦として板垣退助率いる新政府軍800名の攻撃を受け、わずか一日で落城しました。丹羽長重が築城した棚倉城は灰燼と化し城下町も焼き払われました。

棚倉城:戦国時代は伊達政宗や佐竹義重が争った地で戦国後期に丹羽長重が築城した城 棚倉城【お城特集 日本の歴史】

城の構造は本丸を二ノ丸、三ノ丸が囲み、内堀と外堀をには水を引き入れ一部の石垣と土塁が中心の城でした。

目次

慶応二年に白河から移された阿部正静と亀ヶ城の名

棚倉町の資料によりますと、阿部正静が白河藩主から棚倉藩主となったのは慶応二年で、戊辰戦争のわずか二年前のことでした。棚倉城は元和八年に常陸国江戸崎から丹羽長重が移されて以来、慶応四年に落城するまでの二百四十余年のあいだに八家十六代の城主が入れ替わった城です。堀に住む大亀が水面に浮かぶと決まって殿様が転封されるという言い伝えがあり、そこから亀ヶ城という別名で呼ばれてきました。短い間隔で大名が送り込まれる城であり、正静の入部もその流れの末に置かれたものでした。

白河口で五十五名を失い六月二十四日に自ら火を放つ

棚倉町の説明では、棚倉藩は奥羽越列藩同盟に加わって白河城を中心に新政府軍と戦い、この戦いで五十五名の戦死者を出しました。白河小峰城が陥落すると新政府軍は次の目標を棚倉城に定め、六月二十四日の攻撃によって城は落ちます。このとき藩兵は自ら城に火を放って分領へ逃れたと記録されており、のちの発掘調査でも戊辰戦争時の火災で焼失した痕跡が裏づけられました。阿部正静は新政府に恭順の意を示して叔父の阿部正功に家督を譲り、明治二年の版籍奉還と明治四年の廃藩置県を経て、藩としての棚倉は幕を閉じました。

国史跡となった土塁と樹齢六百二十年の大ケヤキ

焼け落ちた城跡は、平成三十一年二月二十六日に国の史跡に指定されました。本丸を囲む土塁は高さおよそ六メートルで今も残り、西側の外堀跡には約百六十メートルにわたって石垣が続いています。土塁の上には南北朝時代の板碑や棚倉城規模碑などが並びます。本丸跡に立つ棚倉城跡の大ケヤキは昭和五十一年五月四日に福島県の天然記念物に指定されており、棚倉町の緑の文化財一覧はその樹齢を約六百二十年としていますので、落城のときにもこの木はすでにこの地に立っていた計算になります。

丹羽長重と立花宗茂の棚倉

改易から戻った大名 棚倉は、関ヶ原の戦いで西軍についた二人の大名が、のちに大名として復帰した地です。一人は筑後柳河の立花宗茂で、関ヶ原ののち領地を失いましたが、慶長八年(1603)ごろ棚倉に一万石を与えられて大名に戻り、のちに旧領の柳河に返り咲きました。改易された大名が旧領に戻った、ほとんど唯一の例です。

丹羽長重の築城 もう一人の丹羽長重も、関ヶ原ののちに領地を失い、のちに大名に戻って棚倉に移りました。長重は寛永元年(1624)ごろから棚倉城を築き始め、そのあと白河へ移って白河小峰城を築いています。築城の名手とされた長重の手になる城の一つが、この棚倉城でした。

棚倉城の縄張りと、入れ替わった城主たち

天守を持たない、土塁と堀の城

棚倉城は、本丸を二の丸が囲み、その北から西にかけて鍵の手形の三の丸を置いた平城です。縄張りは、輪郭式と梯郭式を組み合わせたものでした。天守や三重櫓はなく、二重の隅櫓を四基置いて、それを多聞櫓でつないでいました。本丸を多聞櫓で囲む形は、東北の城では珍しいものです。

石垣は二の丸の一部に限られ、守りの中心は土塁と二重の堀でした。本丸の南北の虎口は土塁で囲んだ枡形で、南が大手です。北を除く三方は、河岸段丘の崖がそのまま外郭線になっていました。

八家十六代の城主

福島県の資料によりますと、江戸時代の棚倉には八家十六代の城主が入れ替わりました。立花宗茂、丹羽長重ののちは、内藤家、太田家、松平家、小笠原家、井上家、松平(松井)家と続きます。松井松平家の松平康英は、棚倉藩主のときに老中に抜擢されました。慶応二年に康英が川越へ移り、代わって入ったのが阿部家です。

兵庫開港を決めた老中、阿部正外

最後の藩主・阿部正静の父、阿部正外は老中を務めた人物です。慶応元年、正外は朝廷の勅許を得ないまま兵庫開港を決めました。このため、朝廷の求めで老中を罷免されています。戊辰戦争では、家老の阿部内膳が慶応四年五月一日の白河口の戦いで戦死しました。落城ののち、正静は伊達郡の保原陣屋で新政府軍に降伏しています。

城跡のいま

明治二十三年(1890年)、城跡に東白川郡の郡役所が移されました。南門は町内の長久寺の山門として移築されています。二の丸西側の石垣は棚倉中学校の脇に残り、本丸の土塁と水堀は亀ヶ城公園として親しまれています。

場所・アクセス・地図

福島県東白川郡棚倉町棚倉

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