洲本城は大永六年(1526年)三好氏の重臣・安宅治興が築城しました。
治興の後は養子の安宅冬康(三好長慶の弟)が跡を継ぎ、冬康の死後は長男「信康」、その後次男「清康」へ受け継がれました。天正九年(1581年)織田家の重臣である羽柴秀吉の淡路征伐の際、秀吉に降り、城は秀吉家臣の仙石秀久に与えられました。
しかし、秀久は九州征伐の際に島津軍との戦いで軍律違反を犯して高野山へ追放され、代わって「脇坂安治」が城主となり天守が建造されました。

石垣の大改修の際は、朝鮮攻めで得た倭城の経験から「登り石垣」が築かれました。江戸時代になると「蜂須賀小六」に仕えていた「稲田大炊助(稲田植元)」が蜂須賀家筆頭家老になり洲本に領地を拝領します。

初めは由良城を拠点としていましたが、交通の便が悪いことから新たに洲本に城を築きました。なお、稲田家が蜂須賀家から独立して諸侯に列しようとしたのは明治に入ってからで、これに反発した徳島の藩士らに襲撃されて多くの死傷者を出しました。明治三年五月十三日の庚午事変、いわゆる稲田騒動です。
結果、北海道(日高地方・色丹島)へ移住を命じられ多くの士族が開拓のため新天地へ移住しました。
幕命で築いた洲本・由良の台場と、下屋敷に移った益習館
ペリー来航の翌年にあたる安政元年、徳島藩は幕府の命を受けて洲本と由良に台場の築造を始め、文久元年に完成させました。淡路の海は大坂湾の入口にあたり、洲本城下は海防の最前線に立たされたことになります。同じ安政元年、稲田家は私塾であった学問所を洲本の下屋敷へ移し、「益習館」と名づけます。ここで稲田家の家臣や素封家の子弟が学びました。その庭園は、日本最大級の巨岩を用いた武家庭園として、平成三十一年に旧益習館庭園の名で国の名勝に指定されています。
明治三年五月十三日、城下を襲った庚午事変
維新の禄制改革で稲田家の家臣は陪臣として卒族に組み入れられ、士族への編入を願い出て、分藩独立を目指す動きを強めます。これに反発した蜂須賀家の家臣らおよそ九百人が、明治三年五月十三日の早朝、稲田邦植の別邸や益習館、宇山の稲田武山邸などを襲撃しました。自決二人、即死十五人、重傷六人、軽傷十四人という被害が出て、益習館も焼け落ちます。徳島藩側の主謀者十人は斬首ののち切腹、二十七人が八丈島への終身流刑となり、専称寺には切腹や遠島、入牢中に亡くなった二十二人を悼む庚午志士の碑が建てられました。
解体された御殿と、日本最古といわれる模擬天守
山麓の御殿にあたる下の城は明治元年に解体され、その一部が金天閣として洲本八幡神社の境内へ移り、兵庫県の文化財となっています。三熊山の上の城は平成十一年一月十四日に国の史跡に指定されました。天守台に建つ天守は昭和三年に御大典記念として着工し、翌昭和四年に完成した鉄筋コンクリート造で、日本で最も古い模擬天守といわれます。老朽化のため、いまは内部へ登れません。
脇坂安治と登り石垣
賤ヶ岳の七本槍の城 洲本城を戦国時代の終わりに大きく築き直したのは、豊臣秀吉の家臣で、賤ヶ岳の七本槍の一人として知られる脇坂安治です。安治は天正十三年(1585)に淡路の洲本に入り、水軍の将として城を整えました。山の斜面を上から下へと縦に走る「登り石垣」は、朝鮮出兵のときに朝鮮半島で築かれた倭城と同じ技法で、全国でも珍しいものです。
蜂須賀家の時代 江戸時代に入ると、淡路は阿波の蜂須賀家の領地となり、洲本城には蜂須賀家の家老・稲田家が城代として入りました。この稲田家の家臣たちが、明治三年に徳島藩士に襲われたのが庚午事変(稲田騒動)です。
場所・アクセス・地図
兵庫県洲本市小路谷

