二条城は京都府中京区にある江戸時代に造営された平城です。二条城には「足利氏」「織田氏」「豊臣氏」「徳川氏」がそれぞれ築いたものがあり、現在の二条城は徳川時代に築城されたものです。
二の丸御殿が国宝に指定されており、ユネスコの世界文化遺産にも指定されています。一躍この城を有名にした事件が、徳川幕府末期幕末に徳川慶喜が表明した「大政奉還」でしょう。
これにより薩摩藩・長州藩は一旦は徳川幕府を討つ大義名分を失うことになります。大政奉還を表明したことにより徳川幕府は実質終焉を迎えることとなりました。
※二条城外堀


※二条城正門

慶応三年十月、大広間に集まった四十藩の重臣
大政奉還は一日で決まった話ではありません。元離宮二条城の説明によりますと、慶応三年十月十三日、徳川慶喜は二の丸御殿の大広間に、在京していた四十藩の重臣を集めてまず意見を聞きました。そのうえで翌十月十四日に政権を朝廷へ返上すると申し出て、十五日に朝廷がこれを許します。舞台となったのは大広間の一の間と二の間で、将軍が大名や公卿衆と公式に対面する、御殿のなかでも最も格の高い座敷でした。上段に将軍、下段に諸侯という座の配置そのものが二百六十年余りの秩序を示す場所であり、そこで秩序の幕引きが告げられたことになります。
遠侍から白書院まで雁行する六棟
二の丸御殿は、東南から北西へ向かって遠侍、式台、大広間、蘇鉄の間、黒書院、白書院の六棟が雁行形に連なる構成で、部屋数は三十三室、畳は八百畳余りを数えます。来殿者が控える遠侍が最も大きく、式台では将軍への用件や献上物を取り次ぎ、黒書院は江戸時代に小広間、白書院は御座の間と呼ばれて、将軍の居間と寝室にあてられました。江戸城や大坂城、名古屋城の御殿が失われたいま、城郭に残る唯一の御殿群として、六棟はそろって昭和二十七年三月二十九日に国宝へ指定されています。
将軍家茂の入城と、城跡に残されたもの
幕末の二条城に入ったのは慶喜だけではありません。京都府教育委員会の説明では、文久三年と元治元年、十四代将軍徳川家茂が長州征伐のためこの城へ入城しました。城跡は現在、全域が国の史跡に指定されています。御殿を飾った狩野派の障壁画は千十六面が重要文化財となり、明治二十六年には京都御所の北東にあった桂宮御殿が本丸へ移されて、今日の本丸御殿となりました。
二条城の築城と寛永の行幸
家康が築いた城 二条城は、慶長八年(1603)に徳川家康が、京都の御所の守りと将軍が上洛したときの宿所として築いた城です。家康はこの年、二条城で征夷大将軍の宣下を祝う儀式を行いました。のちに三代家光が城を大きく広げ、伏見城から天守を移しています。
後水尾天皇の行幸 寛永三年(1626)には、後水尾天皇が二条城に行幸し、五日間にわたって滞在しました。将軍家光と大御所秀忠が天皇をもてなしたこの行事は、徳川家の力を天下に示すものでした。ところがその天守は、寛延三年(1750)の落雷で焼け、その後再建されることはありませんでした。
大政奉還が告げられた部屋
二ノ丸御殿がいちばん大きな役目を果たしたのは、慶応三年十月でした。
京都市の公開資料によりますと、慶応三年十月十三日の正午、徳川慶喜は十万石以上の大名家の重臣を二ノ丸御殿の大広間に召集し、政権を返すという予定を公表しました。該当する大名家は全国で五十家あり、集まったのは四十二家。別の京都市の資料では「四十藩五十余名」とされていて、数え方に幅があります。
顔を並べた藩の名は、尾張、紀州、彦根、讃岐高松、姫路、庄内、加賀、阿波、筑前福岡、仙台、鳥取、肥後熊本、米沢、越前福井、備前岡山、薩摩、土佐、芸州広島、宇和島、会津、新発田など。敵と味方が同じ部屋に座っていたことになります。
そして慶喜が直接ことばを交わしたのは、ほかが退出したあとに居残った六人だけでした。薩摩の小松帯刀、土佐の後藤象二郎らです。
翌十月十四日に上表が出され、十五日に摂政の二条斉敬ら廷臣が集まって協議し、受諾が伝えられます。十月三日に山内容堂が建白してから、わずか十二日のことでした。
部屋には、それぞれの役目があった
二条城の公式の説明によると、各部屋の役目はこうです。
- 遠侍—来殿者が控える場所。二ノ丸御殿で最も大きな建物で、襖絵から「虎の間」とも呼ばれます
- 式台—将軍への用件や献上物を取次ぐ場所。表の「式台の間」と裏の「老中の間」からなります
- 大広間—将軍と大名や公卿衆との公式の対面所
- 黒書院—江戸時代の名は「小広間」。大広間に次ぐ公式の場
- 白書院—江戸時代は「御座の間」。将軍の居間と寝室
来た者が控える部屋、取次ぐ部屋、対面する部屋。四十二家の重臣が通された道順を思うと、この並びに意味が出てきます。
二百三十年ぶりに、将軍が入った城
幕末の二条城は、長く使われていなかった城でした。二条城の年表によると、文久三年に十四代将軍の徳川家茂が入城したのは「三代将軍家光が入城して以来」のこと。およそ二百三十年ぶりです。
慶応二年には、この城内で慶喜が十五代将軍の職を継ぎます。そして明治元年一月には、城内に太政官代が置かれました。将軍が二百三十年ぶりに戻ってきて、五年のうちに政権を返し、同じ城が新政府の役所になる。幕末の二条城は、そういう五年を過ごしています。
指定の中身
国宝の建造物は六棟で、昭和二十七年の指定です。遠侍、式台、大広間、蘇鉄之間、黒書院、白書院。重要文化財の建造物は二十二棟、同じ昭和二十七年。二之丸御殿の障壁画は千十六面が重要文化財で、現存する障壁画は約三千六百面あります。二之丸庭園は特別名勝、旧二条離宮としての史跡指定は昭和十四年で敷地すべてが対象です。世界遺産の登録は平成六年。総面積は二十七万五千平方メートルです。
場所・アクセス・地図
京都府京都市中京区二条城町



