藩の歩み
宮川藩は津山藩の支藩です。津山藩第2代藩主「森長継」の弟の「関長政」が一万八千七百石を分知され立藩します。元禄十年(1697年)、津山藩森家の廃藩に伴い、第2代藩主「関長治」は新見藩に転封されて廃藩となりました。
本家・津山藩との関係
美作宮川藩は、津山藩(当時は森家)の支藩で、関家が一万八千石余を領しました。
ただし、この藩は幕末まで続いた藩ではありません。本藩である津山藩(当時は森家)がいったん廃藩となったのにともない、宮川藩も新見藩へ移されて姿を消しました。のちに津山藩には松平家が入っています。幕末の津山藩の動きは本家のページをご覧ください。
廃藩のあと—本藩と「亡命政権」が同居した美作
宮川藩は、津山藩二代・森長継の弟である関長政が一万八千七百石を分けられて立った支藩です。ただし立藩の年は史料によって三説あります。『徳川実紀』は寛永十一年(1634年)、『恩栄録』は寛永十四年、『寛政重修諸家譜』は承応元年(1652年)です。
元禄十年(1697年)、本家の森家が改易となり、関長治は備中新見へ移って新見藩を立て、宮川藩は廃藩となりました。翌年、松平宣富が十万石で津山に入り、以後、廃藩置県まで津山松平家が続きます。
なお宮川陣屋がどこにあったかは、わかっていません。津山市内であることは確実ですが、地名まで特定できる資料に当たれていません。
その津山の幕末は、かなり変わった状態でした。津山藩は長州征討と鳥羽伏見では幕府側で戦い、その後恭順して献金五千両を課されて許されています。
そしてもうひとつの藩が、この地に転がり込んできました。鶴田藩です。
慶応二年(1866年)の幕長戦争で浜田藩が長州軍に本国を占領されました。藩士八百名余りが美作にあった飛地へ避難し、幕府の指示もあって移転します。翌慶応三年、美作国内で二万石を与えられ、合わせて二万八千石で立藩しました。陣屋は里公文村と桑下村—いまの津山市里公文・桑下に置かれ、のちに桑下村へ藩主の邸宅「西御殿」が築かれています。
幕末の津山周辺は、本藩の津山松平家と、本国を追われて丸ごと引っ越してきた浜田松平家が同居する状態でした。国替えではなく逃げ込みで藩が立った、珍しい例です。
津山藩は宇田川家や箕作家といった洋学者を輩出した藩でもあります。津山城跡や津山洋学資料館が残ります。
森蘭丸の一族から分かれた関家
宮川藩の関家は、織田信長の小姓・森蘭丸(成利)の一族とつながる家です。津山藩を開いた森忠政は蘭丸の末の弟で、兄たちが本能寺の変や小牧・長久手の戦いで次々に命を落としたため、ただ一人残って森家を継ぎました。その忠政の娘を妻としたのが家臣の関成次で、二人のあいだに生まれた長継が森家の跡を継ぎ、弟の長政が宮川藩を立てました。関家は、森家の女系から出た一門だったのです。
宮川を出た関家のその後—備中新見藩
本家の森家が元禄十年(1697)に改易されたあと、関長治は備中の新見(いまの岡山県新見市)一万八千石に移され、関家はここで明治を迎えました。本家が消えたあとも、分家が大名として残ったことになります。
新見藩は学問の盛んな藩で、藩儒の丸川松隠は、のちに備中松山藩の財政を立て直す山田方谷の若いころの師として知られます。幕末の新見藩は、慶応四年(1868)の戊辰戦争で新政府に恭順しました。隣の備中松山藩が、藩主の板倉勝静が老中だったために朝敵とされ、方谷が新政府軍に城を明け渡す交渉にあたったのとは対照的でした。
同じころの日本—元禄の貨幣改鋳
金貨の質を落とす 美作宮川藩が廃藩となった元禄十年(1697)のころ、幕府は財政難を乗り切るために、勘定吟味役・荻原重秀の提案で、金貨や銀貨に含まれる金銀の割合を減らした新しい貨幣をつくっていました。元禄八年(1695)に始まる元禄の貨幣改鋳です。
物価の上昇 貨幣の数が増えたことで幕府は一時的に収入を得ましたが、物の値段は上がり、人々の暮らしに影響が出ました。一方で、町人の経済が活気づき、大坂や江戸では元禄文化が花開いています。森家の改易で揺れた美作の地も、こうした時代の中にありました。
森蘭丸の姉の血筋—関家の宮川藩と、犬小屋事件
森家と二代続けて結ばれた関家
宮川藩の関家の曾祖父・関成政は、小牧・長久手の戦いで森長可(森蘭丸の兄)の隊に加わり、長可の討死を聞くと徳川軍に斬り込んで戦死しました。成政の妻は長可の姉・碧松院で、その子・関成次も森忠政の娘を妻にしています。関家は森家と二代続けて縁組した家で、森蘭丸の姉の血筋にあたります。成次は父の死後、母方の叔父の森忠政を頼り、関家は津山藩森家の一族として生きていきました。
森家から来た養子
初代藩主・関長政は慶長十七年(1612年)生まれで、元禄十一年(1698年)に八十七歳で亡くなりました。二代の関長治は、実は津山藩主・森長継の子で、叔父の長政の養子になった人です(森長継については西江原藩のページもご覧ください)。家格は外様です。
中野の犬小屋と、本家の改易
元禄十年(1697年)、本家の津山藩が改易されました。跡を継ぐはずだった森衆利が、江戸へ向かう途中の伊勢で「狂心」したためです。背景には、幕府に命じられた中野の犬小屋の普請で、犬が浪人に殺される事件があり、その責任を問われた家臣が切腹させられたことがあったとも伝わります。生類憐みの令の時代の重圧が、大藩の跡継ぎを追い詰めたのかもしれません。衆利も、もとは関家の養子だった人でした。同じ年、宮川藩は備中新見へ移されています。
新見御殿町
新見に移った関長治は御殿を建てて政務を執り、牛市を開き、植林や牧畜を勧めました。この「新見御殿町」の町並みはいまも残っています(JR新見駅から徒歩約二十分)。ただ、新見一万八千石は元禄の検地で高めに見積もられた数字で、実際の生産高は約九千石だったとされます。森蘭丸の姉の血筋の家が、備中の山あいで、数字と実際の差に苦しみながら明治まで続いた。宮川藩の歴史は、そこから始まりました。



