津山新田藩(津山藩支藩)
藩の歩み
貞享三年(1686年)、津山藩3代藩主「森長武」が甥の「森長成」に藩主を譲った際、蔵米2万俵を与えられて立藩しました。元禄九年(1696年)、長武の養嗣子となった「長基」が病と称し江戸への参府の命に反したため相続を認められず廃藩となりました。
本家・津山藩との関係
津山新田藩は、津山藩(森家)の支藩で、隠居した前藩主・森長武に与えられた蔵米二万俵をもとにした藩で、土地を分けられた藩ではありませんでした(一万石とする紹介もあります)。
ただし、この藩は幕末まで続いた藩ではありません。藩主・森長基が病を理由に参府の命に応じなかったことなどから、江戸時代の早い時期に廃藩となりました。その後、津山藩そのものも森家から松平家へと替わっています。幕末の津山藩の動きは本家のページをご覧ください。
地図に載らない藩でした
この藩を調べていて気づいたのですが、「津山新田藩」と呼ばれる藩は二つあります。
ひとつは延宝四年(1676年)に森長俊が一万五千石で立てた藩で、元禄十年(1697年)の津山藩森氏改易にともなって播磨三日月藩へ転じました。
もうひとつが貞享三年(1686年)に立った、蔵米二万俵の藩です。元禄九年(1696年)に相続が認められず廃藩となりました。
注目したいのは後者です。蔵米というのは現物支給ですから、この藩には知行地がありません。領地がなければ陣屋も城下もなく、藩主は江戸に住んでいました。地図に載らない藩だったことになります。そのため現地に残るものは、原理的に存在しません。
本家の津山藩も元禄十年に改易されます。藩主・森長成の死去にあたって幕府が認めた養子の衆利が、江戸への道中で失心したとされたためでした。翌元禄十一年から、越前松平家が十万石で津山に入ります。
幕末の藩主は松平慶倫。1860年代には朝廷と幕府の周旋役を務めましたが、のちに藩内の勤王派を粛清しています。
この津山藩には「学問の藩」という顔がありました。明和二年(1765年)に藩の学問所を設け(明治三年に修道館と改称)、法学者の津田真道や、のちに首相となる平沼騏一郎を輩出しています。宇田川家や箕作家といった洋学者を出したのもこの藩です。
領地を持たなかった支藩の話から、本家の学問の伝統へ—たどっていくと、そういう筋になります。津山城跡と津山洋学資料館が残ります。
【廃藩のあと—幕末の津山】一揆と洋学の町
津山新田藩は、貞享三年(1686年)に津山藩から蔵米を分け与えられて成立し、元禄九年(1696年)に相続が認められずに廃藩となりました。石高については蔵米二万俵とする資料があり、一万石という数字と一致しません。また延宝年間に森長俊が勝北郡で一万五千石を分けられた藩も同じく津山新田藩と呼ばれ、こちらは元禄十年(1697年)に播磨の三日月へ移っています。同じ名で二つの藩があるため、混同しやすいところです。いずれにせよ幕末には存在しない藩です。
幕末の津山藩
元禄十一年(1698年)から津山は松平家の城下となりました。幕末の藩主は松平慶倫です。文政十年(1827年)に生まれ、安政二年(1855年)に家督を継ぎました。文久三年(1863年)には国事の周旋を命じる内勅を受けて上京し、朝廷と幕府の間を取り持とうとしています。しかし八月十八日の政変で情勢が変わると、藩内の尊攘派を抑える側に回りました。明治二年(1869年)に知藩事となり、明治四年(1871年)七月、廃藩置県の直後に亡くなっています。
改政一揆
幕末の津山でもっとも大きな出来事は、慶応二年(1866年)十一月に起きた改政一揆(美作の世直し一揆)です。長州出兵にともなう人夫の負担、凶作、物価の高騰が重なり、加茂の村人たちが寺の鐘を合図に蜂起しました。動きは城下へ向かい、林野や久世など美作各地に広がります。藩は鉄砲で応じて死傷者が出ましたが、最後には要求の一部を認め、三万三千俵余りの救済米を放出しました。首謀者たちは明治になって全員釈放されています。幕末の民衆の不満が、長州征討という中央の政治と直結していたことを示す一揆です。
洋学の町
津山のもう一つの顔は洋学です。宇田川玄随が『西説内科撰要』を、宇田川玄真が『医範提綱』を、宇田川榕菴が『舎密開宗』『植学啓原』を著し、箕作阮甫は幕府の対米・対露の交渉に加わって蕃書調所の首席教授となりました。十万石の城下町が、蘭学と化学の用語を日本語に置き換える仕事の拠点になっていたのです。
藩校は明和二年(1765年)の学問所に始まり、明治三年(1870年)に修道館と改称して翌年に廃されました。津山城跡は昭和三十八年(1963年)に国の史跡に指定され、現在は鶴山公園として石垣が残ります。廃藩後は津山県となり、美作一国を管轄する北条県が津山城内に県庁を置き、明治九年(1876年)に岡山県へ併合されました。
隠居した藩主の別家と、本藩の跡継ぎ問題
蔵米2万俵の別家
貞享3年(1686)の「蔵米二万俵」の家は、津山藩主の森長武が42歳で隠居した際に別家を立てて与えられたものとされます。長武の正室は豊岡藩主・京極高直の娘です。森家のもう一つの分家としては、延宝4年(1676)に森長俊が1万5千石を分けられた三日月藩があります。
長武と長成の不和
本藩の4代藩主・森長成は成長すると長武と不仲になり、長武が分家を立てようとする計画に反対したといわれます。長成の代には、生類憐みの令による中野の犬小屋の普請で4万両を負担し、藩財政が悪化しました。長成の跡は、長継の十二男・衆利が関家から迎えられて継いでいます。
長基と改易
森長基は寛文10年(1670)生まれで、長継の子です。元禄9年(1696)に27歳で家を継ぎましたが、同じ年に本藩の改易とともに家を失ったとされます。
考察:隠居の処遇が生んだ分家
津山新田藩は、領地を分けるというより、隠居した前藩主の暮らしを支えるための家だったと考えられます。前藩主と現藩主の不和が分家の成り立ちに影を落としていた点に、大名家の内側の緊張が見えます。



