小野藩の歩み
寛永十三年(1636年)、伊勢国神戸藩主「一柳直盛」に伊予国西条藩六万八千石が与えられました。直盛の次男「直家」がこのとき播磨国加東郡内で五千石を分与されました。同年、直盛が任地に赴く途中大坂で没するとその遺領は男子3人によって分割されることになりました。長男直重が西条藩三万石を継ぎ、三男の「直頼」は伊予国小松藩一万石を分与されています。次男「直家」には伊予国宇摩郡・周敷郡内の二万三千石を分与され、既に播磨に領していた五千石とあわせて都合二万八千石の領主となりました。直家は当初伊予国宇摩郡河上に川之江陣屋を構えて川之江藩を立藩し、播磨国加東郡の分地には代官所を設置して管轄しました。
慶応四年(1868年)の「戊辰戦争」では早くから新政府に帰順して「北越戦争」に出兵しました。最後の藩主「一柳末徳」は、明治二年(1869年)の版籍奉還で小野藩知事となり、明治四年(1871年)の「廃藩置県」で上京します。そして福沢諭吉の慶應義塾に入って英学を学びました。
播磨小野の一柳家
小野藩は、播磨国加東郡(現在の兵庫県小野市)に置かれた一万石の藩で、藩主は一柳家、陣屋を構える小藩でした。加古川の流れる播磨平野の一角を治めた、そろばんや金物づくりでも知られる地の藩です。
北越戦争への参戦
戊辰戦争において小野藩は新政府軍に帰順し、遠く越後の北越戦争にまで兵を送って戦いに加わりました。西国の小藩でありながら、はるばる北越の戦線にまで出兵したその働きは、新政府のもとに全国の諸藩が動員されていった戊辰戦争の様相をよく伝えています。
綾部から来た養子と、北越へ出た小藩
小野藩は播磨に置かれた一万石の藩で、藩主は一柳家です。城は持たず陣屋を構える小さな藩でしたが、幕末には養子として入った当主が藩の針路を決めることになりました。
他家から入った最後の藩主
幕末の藩主は一柳末徳です。嘉永三年(1850年)に丹波綾部藩主・九鬼隆都の五男として生まれ、文久三年(1863年)に小野藩の家督を継ぎました。十代のはじめで他家から迎えられた当主です。
戊辰戦争では新政府に帰順し、北越方面へ兵を出しました。一万石の藩が越後まで兵を送るのは容易ではありません。長岡藩をめぐる北越の戦いは戊辰戦争で最も激しい戦場の一つで、西国の小藩の兵もそこへ動員されていきました。末徳は明治十七年(1884年)に子爵を授けられ、大正十一年(1922年)3月7日に、明石の大蔵谷の本邸で亡くなったとされます。
移された陣屋と藩校
小野藩の陣屋は、はじめ加東郡敷地村の敷地陣屋(現在の大部小学校のあたりとされます)に置かれ、承応2年(1653年)に手狭だったためか小野へ移されました。小野の陣屋跡にはいま小野小学校が建っており、藩庁の跡地が教育の場に変わっている点はいかにも維新後の日本らしい光景です。
藩校は、天保七年(1836年)に九代末延が国学者の大国隆正を招いて開いた帰正館とされ、小藩ながら学問に手をかけていたことがわかります。ただし藩校の名を敬義館とする資料もあります。
一柳家に伝わった刀は、平成八年(1996年)に小野市の文化財に指定されました。小野は古くから金物の産地で、そろばんや刃物の生産で知られる土地です。藩の記録は少なくとも、手仕事の伝統はこの地に残りました。
廃藩後は小野県となり、姫路県、飾磨県を経て兵庫県に編入されました。
一柳家の先祖—山中城で討死した一柳直末
小野藩の一柳家は、伊予の河野氏の流れをくむと称し、美濃で豊臣秀吉に仕えて大名となった家です。家を大きくしたのは、小野藩祖・直家の伯父にあたる一柳直末でした。直末は秀吉の古くからの家臣で、美濃軽海西城の城主となりましたが、天正十八年(1590)の小田原攻めの初戦、伊豆の山中城攻めで鉄砲に撃たれて討死します。秀吉はその死をひどく悲しんだと伝えられます。
直末の死後、家を継いだのが弟の直盛(直家の父)です。直盛は関ヶ原で東軍につき、伊勢神戸を経て伊予西条六万八千石を与えられました。一柳家が河野氏の故地・伊予に戻ったことになります。
一柳の三つの家のゆくえ
直盛の遺領は三人の子に分けられ、西条・川之江(のち小野)・小松の三家が生まれました。このうち本家の西条藩は寛文五年(1665)に改易となり、川之江を本拠とした直家の家も、跡継ぎの事情で伊予の領地を失って播磨の小野一万石に縮小します。幕末まで残ったのは、播磨の小野藩と伊予小松藩の二家でした。
ヴォーリズ夫人を生んだ家と、好古館
末期養子で減った石高
2代直次は但馬出石藩主・小出吉親の次男で、直家の養子になりました。当時は末期養子が認められなかったため、遺領2万8千石余は1万石に減らされたとされます。家格は外様です。同じ一柳家の伊予小松藩とは親戚にあたり、小松藩主頼紹の長女は小野藩主一柳末徳の正室になりました。
末徳の子どもたち
末徳は明治23年(1890)に貴族院議員となりました。三女の一柳満喜子は大正8年(1919)に建築家W.M.ヴォーリズと結婚し、近江八幡で清友園幼稚園(のちの近江兄弟社学園)を開いています。兄の恵三は広岡浅子の家に婿養子として入りました。小さな藩の大名家が、近代の教育や実業につながっていきました。
陣屋跡と好古館
陣屋跡は小野市立小野小学校の敷地で、旧講堂の位置に小野市立好古館が建っています。好古館は一柳文書と調度類を所蔵し、その中には一柳直末が秀吉から拝領した胴服(重要文化財)があるとされます。前身の川之江陣屋の門は、四国中央市の八幡神社に「一柳陣屋門」として移されています。
考察:大名家の娘が近江で学校を開いた
播磨の小藩の姫が、アメリカ人建築家と結婚して幼稚園を開く。一柳満喜子の生き方は、明治以降の大名家の子女がどれほど新しい道を歩んだかを物語っています。
小野藩をもっと詳しく
直家の急死と、伊予の領地の没収
川之江藩を開いた一柳直家は、寛永19年(1642年)に跡継ぎのないまま亡くなりました。家では但馬出石藩主・小出吉親の次男の直次を養子に迎えたいと願い出ましたが、当時は亡くなる直前に養子を決める末期養子が認められていませんでした。このため伊予の所領は取り上げられて幕府の直轄地となり、直次には播磨国加東郡の1万石だけが、遺領を継ぐ形で与えられました。2万8千石の大名が、一夜にして1万石の小藩になったのです。
台地の先に築かれた小野陣屋
承応2年(1653年)に直次が敷地から移して築いた小野陣屋は、台地の先端に置かれ、まわりは崖になっていました。東側には3つの池があり、これが堀の役目を果たして守りを固めていたとされます。城を持たない1万石の藩でしたが、地形をうまく使って陣屋の守りとしていたことがわかります。いまの陣屋跡は小野小学校の敷地で、当時の建物は残っていませんが、陣屋の南西にあった竹門のあたりには土塀がわずかに残っています。神戸電鉄粟生線の小野駅から歩いて10分ほどで、毎年「小野陣屋まつり」も開かれています。
駿河加番を務め続けた藩主たち
小野藩の一柳家は、3代から9代までの藩主が駿河加番を務めました。駿府城代や定番のもとで城の守りを補う役で、大名が1年ごとに交代して詰めました。藩主が代々この役に就いたことは、小野藩が幕府の城の警備を担う家として扱われていたことを示しています。7代の末昭だけは早く亡くなったため在番していません。3代の末礼は駿河加番を2度務めたのち、元禄5年(1692年)に大番頭、元禄16年(1703年)に将軍の側近である御側衆となりました。財政が苦しくなった時期には、5代の末栄が倹約を中心に立て直しを進め、藩の中興の祖とされています。9代末延の代の天保4年(1833年)には、播磨で加古川筋一揆と呼ばれる大きな百姓一揆が起きました。
帰正館に招かれた大国隆正
9代末延が藩校帰正館に招いた大国隆正は、津和野藩士の家に生まれた国学者で、平田篤胤にも学んだ人物です。のちに故郷の津和野藩の藩校で国学を教え、その考え方は門人たちを通じて明治新政府の神祇の政策にも影響を与えたとされます。幕末の思想に大きな足跡を残した学者が、播磨の1万石の藩で教えていたことになります。
九鬼家から来た最後の藩主
10代の末彦は生涯独身だったため、綾部藩主・九鬼隆都の五男、幼名包五郎を養子に迎えました。これが末徳で、文久3年(1863年)6月9日、数え14歳で家督を継ぎ、5年後に戊辰戦争を迎えます。綾部の九鬼家は、戦国時代に志摩の水軍を率いた九鬼嘉隆の流れをくむ家です。海の大名の家に生まれた少年が、播磨の内陸の小藩を率いて越後まで兵を送ることになりました。
1万石の藩が出す兵の目安
江戸幕府が慶安2年(1649年)に定めたとされる軍役の規定(案)は、1万石あたり235人を基準にしていました。小野藩の1万石に当てはめると、動員の目安はおよそ240人です。この規定は案のまま発布されなかったという説もありますが、北越まで兵を送ることが1万石の藩にとってどれほどの負担だったかを考える手がかりになります。
末徳の明治と、子どもたち
末徳は廃藩後に慶應義塾で英学を学び、明治12年(1879年)に東京府芝区の区会議長となりました。華族令で子爵となったのちは帝国博物館に勤め、貴族院議員を4期ほど務めて大正9年(1920年)に辞職しています。子どもには男女を問わず高等教育と海外留学を勧めたとされます。長男の譲二は分家を立て、二男の恵三は広岡家に入り、三男の剛が跡継ぎとされましたが、家を継ぐ前に亡くなりました。そのため剛の長男の末幸が家督を継ぎ、子爵となっています。



