【藩名】
小松藩
【説明】
伊予国東部には、西から小松藩・西条藩・川之江藩(小野藩)と一柳家の兄弟の所領が連なることとなったが、寛永19年(1642年)に小野藩の直家が没すると伊予国内の所領1万8600石が幕府に没収されて天領となりました。寛文5年(1665年)には西条藩の「一柳直興(直重の子)」が改易され、伊予国には小松藩のみが残ることとなりました。
第8代藩主「一柳頼紹」の時代に幕末の動乱期を迎え、慶応4年(1868年)の「戊辰戦争」においては新政府軍に加わり、藩兵51人が出兵しました。小松藩兵は京都で明石藩・小野藩・三日月藩・足守藩などの諸藩兵と合流し、ともに越後に出兵して新潟・長岡・村上などを転戦した(北越戦争)。この中で戦死者1名・重傷者1名・軽傷者1名を出しています。
明治2年(1869年)6月、版籍奉還にともない頼紹は小松藩知事に任命されたが、間もなく病没しています。その後「一柳頼明」が藩知事を継いだが、明治4年(1871年)7月、廃藩置県によって小松藩は廃止され小松県となりました。小松県は同年のうちに廃され、松山県・石鉄県を経て愛媛県に編入されました。
一万石が九代二百三十年
小松藩は寛永十三年(1636年)、一柳直盛の三男である一柳直頼が立てた一万石の藩です。以後、一柳家が九代およそ二百三十年にわたって治め、明治四年の廃藩置県まで続きました。伊予の諸藩のなかで、外様の小藩が最後まで家を保った例です。
町は陣屋を中心に計画的につくられました。陣屋は藩主の御殿と政務所を兼ねたおよそ六千三百坪の居館で、跡地は西条市小松町新屋敷にあり、いまは石碑と説明板が建つ市の史跡となっています。建物は周辺の寺へ移されて残りました。仏心寺に門と蔵、妙学寺に鐘楼、ほかの寺にも「御竹門」「坂下門」といった門が伝わります。仏心寺は初代藩主・一柳直頼の菩提寺として建てられた寺で、一柳家の墓所があります。
小松藩会所日記——百五十年分の記録
この藩がいま注目されている最大の理由が、「会所日記」です。
家老や月番の奉行が書き継いだ藩の公式記録で、享保元年(1716年)から慶応二年(1866年)まで百五十年分、全二百六十二冊が残っています。昭和四十六年に旧小松町の文化財に指定され、現在は西条市立小松温芳図書館の郷土資料展示室が所蔵しています。
内容は藩政にとどまりません。銀の相場の引き下げをめぐる協議、西条領の村と小松領の村との境界争い、洪水の被害といった記事が並び、領民の暮らしが細かく書き留められています。一万石の小藩は藩士と領民の距離が近く、そのぶん日常が記録に残ったのでしょう。増川宏一と北村六合光による『伊予小松藩会所日記』で広く知られるようになりました。江戸時代の小さな藩が実際にどう動いていたかを日付つきでたどれる、稀な史料です。
伊予聖人・近藤篤山
小松のもう一つの顔が、儒者の近藤篤山です。
明和三年(1766年)に宇摩郡土居(現在の四国中央市)の高橋家に生まれた朱子学者で、享和三年(1803年)に小松藩へ招かれ、藩校の儒官となりました。このとき藩校は「養正館」と改められています。以後およそ四十年、藩士と領民の教育にあたり、藩主の賓師も務めました。天保十三年(1842年)には幕府から表彰されています。弘化三年(1846年)に八十一歳で没しました。
「伊予聖人」と呼ばれたのは、心の持ち方と日々努力することの大切さを説き、自らそれを実践した誠実な人柄が慕われたからです。西条市小松町新屋敷の近藤篤山旧邸はいまも残り、愛媛県の史跡に指定されています。書斎はほぼ当時のままで、読書する篤山の像が置かれています。
五十一人の戊辰
慶応四年(1868年)の戊辰戦争で、小松藩は新政府軍に加わりました。出兵したのは足軽と小者を含めて総勢五十一人です。
小松藩兵は京都で諸藩の兵と合流して越後へ出陣し、新潟、長岡、村上を転戦しました。戦死は一名、重傷一名、軽傷一名です。一万石の藩が出せる兵はこれが精一杯でしたが、その五十一人が北越の戦場にいたことになります。最後の藩主は九代の一柳頼明でした。
同じ一柳家から分かれた西条藩(紀州藩支藩)の隣で、そして朝敵とされた伊予松山藩の隣で、小松藩は静かに新政府の側に立ち、家を保って明治を迎えています。
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