半原藩の歩み
半原藩は岡部藩が慶応四年(1868年)四月に藩庁所在地を三河国八名郡半原村(現在の愛知県新城市富岡)に移転したことによって成立した藩です。岡部藩安部氏は元々、武蔵国岡部に陣屋を置く五千石の旗本でしたが、徐々に所領が拡大していき、ついに二万石の藩になるまでなりました。
そして、陣屋を本領である武蔵国岡部以外に三河国、摂津国にも設置し、代官が地方の行政を行っていました。第12代藩主「安部信宝」が死去したため、その末期養子となって家督を継いだ「安部信発」は、同年九月二十三日、将軍「徳川家茂」に拝謁します。元治元年(1864年)、「天狗党の乱」鎮圧に参加し、元治二年(1865年)には日光祭礼奉行を命じられます。
慶応四年(1868年)に「戊辰戦争」が勃発すると新政府軍に恭順し所領安堵を受けました。この時、藩庁を武蔵国岡部から三河国半原へと移転することが認められて半原藩が誕生しました。
藩庁を移して成立した半原藩
半原藩は、幕末に成立した二万石余りの藩で、藩主は譜代の安部家でした。もともと武蔵国の岡部(現在の埼玉県深谷市)に陣屋を構えていた安部家が、幕末になって三河国の飛び地・半原(現在の愛知県新城市)へと藩庁を移し、半原藩と称するようになりました。
藩庁移転が語るもの
領地の中心に近い場所へ藩庁を移すというこの動きは、幕末維新の変動期に、諸藩が領国の経営を見直していった一例といえます。長く武蔵の岡部を本拠としてきた家が、時代の変わり目に三河へと拠点を移したその歩みは、幕末の藩をめぐる制度の流動性を今に伝えています。
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藩邸跡は新城市の史跡で、藩だったのは三年ほどです
半原藩邸跡
新城市の市指定文化財(史跡)の一覧には、「半原藩邸跡」が載っています。所在地は富岡字大屋敷で、指定は昭和三十八年(1963年)一月一日です。半原村へ移った藩庁の跡が、いまも市の史跡として扱われているわけです。
移転が許された日は、資料で分かれます
深谷市が公開している埼玉県立文書館の講座資料は、「慶応四年(1868)最後の当主・信発が半原への本拠移動を願い出て許され、半原藩となっている」と記しています。許可の日については、Wikipediaの「岡部藩」が慶応四年四月三日、「安部信発」の項が四月十四日としていて一致しません。移転の理由についても、同じ別の資料は武蔵の所領だけでは藩士に知行を与えるのが難しかったためと説明しています。
同じ講座資料によれば、安部家の石高は表高二万二百五十石で、天明七年の時点で武蔵・上野・摂津・三河・丹波の五か国に分かれていました。三河分は六千石です。所領が各地に散らばっていたことが、上の段の代官による支配や、藩庁の移転につながっています。
最後の藩主信発
日本人名大辞典によれば、安部信発は弘化二年(1845年)十二月十九日に、武蔵金沢(六浦)藩主米倉昌寿の九男として生まれ、安部信宝の養子となって文久三年(1863年)に安部家十三代となりました。明治二十八年(1895年)九月六日に五十一歳で亡くなっています。深谷市の資料は生年を弘化三年としており、こちらも一年の差があります。
実家の六浦藩は六浦藩のページにあります。爵位は、日本人名大辞典が「のち子爵」とし、男爵とする資料もあって一致していません。
半原県から額田県へ
廃藩置県で半原県となり、明治四年十一月に田原・豊橋・半原・西大平・岡崎・挙母・西尾・西端・刈谷・重原の十県がまとめられて額田県になりました。額田県は翌年に廃止され、愛知県となっています。藩として存在したのは慶応四年から明治四年までの三年ほどです。
今川家臣から譜代大名へ—安部家と、浅野内匠頭のいとこ
今川義元から一字を受けた安部元真
半原藩の安部家の祖・安部元真は、今川家の家臣で、今川義元から一字をもらって「元真」と名のりました。武田信玄が駿河に攻め込んだとき駿府で迎え撃ちましたが敗れ、今川家が滅んだあとは流浪の末に家康に仕えています。遠江の伯耆塚城に入って武田家と戦いました。元真の夫人・白蓮院は、天正十八年(1590年)に駿河から武蔵岡部へ移ってまもなく亡くなり、墓は深谷市の白蓮寺にあります。
家格と、江戸城の席
安部家は譜代大名で、江戸城では菊間に詰めていました。四代信峯の正室は、日向高鍋藩主・秋月種信の娘です。安部家の娘は、伊勢長島藩主の増山家や、柳沢家の分家にも嫁いでいます。
赤穂事件で出仕を止められた藩主
安部信峯は、赤穂藩主・浅野長矩の母方のいとこでした。元禄十四年(1701年)の松之廊下の刃傷事件では、大垣藩主・戸田氏定とともに親族として連座し、出仕を止められています。五月に出仕を許され、六月末に家督の相続を認められました。忠臣蔵の物語の陰で、遠い親戚の小藩もまた処分を受けていたのです。
岡部の源勝院に並ぶ十二基の墓碑
安部家の菩提寺・源勝院(深谷市)には、歴代藩主の屋根付き位牌型の墓碑十二基が並んでいます。元真をたたえる「安部大蔵君碑」もあり、どちらも深谷市の史跡です。大正二年(1913年)には、陸軍軍医監・池田謙斎の次男が養子に入り、家を継いでいます。
岡部と半原、二つの土地の殿様
安部家は、武蔵の岡部に陣屋と墓所を置き、三河の半原に領地を持つ藩でした。幕末に藩庁を半原へ移したのは、江戸に近い岡部を離れてでも、家と領地を守ろうとした選択だったと思います。藩名が「半原藩」として歴史に残っても、歴代の殿様が眠るのは岡部の寺。この二つの土地をあわせて見ることで、初めて安部家の姿がわかるのだと思います。



