蔵王堂藩の歩み
慶長三年(1598年)に「上杉景勝」が会津に移封すると、かわって越後に入封した「堀秀治」の弟「堀親良」が四万石を与えられて「蔵王堂城主」となりました。堀氏は慶長五年(1600年)の「関ヶ原の戦い」で東軍に味方し旧領を安堵されました。ここに「蔵王堂藩」が成立しました。
元和二年(1616年)「松平忠輝」が「大坂の陣」における不始末から除封されると、「堀直寄」が八万石をもって蔵王堂に入封しました。しかし、直寄は「蔵王堂城」が信濃川に面して洪水に弱いことから、その南の信濃川からやや離れた長岡の地に「長岡城」を築城。その後城下町を移して「越後長岡藩」を立藩します。これにより「蔵王堂藩」は廃藩となりました。
現在の蔵王堂藩陣屋跡(蔵王堂城跡)は蔵王公園として整備されています。
城が消えたあと、そこは寺と神社の門前になりました
堀直寄が長岡へ移ったことで、蔵王堂城は元和四年(1618年)に廃城となります。信濃川のすぐ脇にあり、水害で城の一部が削られる被害を繰り返し受けていたことが、城を捨てた理由に挙げられています。
面白いのは、その跡地の使われ方です。正徳年間に安禅寺が城跡へ移り、正徳五年(1715年)には蔵王権現を祀る蔵王堂が二の丸跡へ遷りました。安禅寺はその蔵王堂の別当寺です。つまり幕末の蔵王堂城跡は、城跡というより門前でした。かつては僧坊が三十八を数えたと伝わります。その姿を変えたのが明治の神仏分離で、蔵王堂は金峯神社と改め、安禅寺は明治四年(1871年)に廃寺となりました。再興されたのは明治十七年(1884年)のことです。
幕末のこの一帯は長岡藩の城下の北にあたります。慶応四年(1868年)の北越戦争では、五月十九日に新政府軍が信濃川を渡って長岡城を落とし、七月二十四日の夜から翌未明にかけて長岡藩兵六百余が八丁沖の沼沢地を潜行して城を奪い返し、七月二十九日にふたたび落ちました。蔵王堂城跡は長岡城から約二キロ、八丁沖と長岡城のちょうど間にあたる位置です。
ただし正直に書きます。この一連の戦いで「蔵王」が戦場や陣として登場する記述は、自治体の資料では確認できません。個人の記録に、城跡の堀や土塁を利用して戦ったとするものはありますが、裏づけが取れていません。
城を奪い返した七月二十五日、河井継之助は左の膝に銃弾を受けます。負傷した場所は「新町口」とする証言と、別の場所とする郷土史があり、特定できません。傷から破傷風を起こし、八月十六日、会津へ落ちる途上の塩沢村で亡くなりました。四十一歳です。
蔵王堂城跡は本丸の部分が安禅寺の境内として残り、土塁と水堀が良好に現存します。長岡市の指定史跡です。土塁の上に城址碑と堀直寄の像が建ち、隣接する金峯神社の境内には城域の図が大きく掲げられています。地元の「蔵王堂城史跡をまもる会」が保存を担っています。
二人の堀家の城主
蔵王堂城の最初の主・堀親良は、「名人久太郎」と呼ばれた堀秀政の次男で、のちに下野の烏山などを経て信濃の飯田藩主の家となり、幕末まで続きました(近藤藩の項も参照)。二人目の堀直寄は、秀政の重臣・堀直政の子で、越後の堀家の内紛を経て大名として生き残った人です(坂戸藩)。直寄は信濃川の洪水に悩まされた蔵王堂を見切り、すぐ南の長岡に新しい城を築き始めました。いまの長岡市の町の始まりです。
直寄が去ったあとの長岡—牧野家と河井継之助
直寄は長岡の城を完成させる前に越後村上へ移され、元和四年(1618)、長岡には牧野忠成が入りました。以後、牧野家が二百五十年にわたって長岡藩主を務めます。牧野家は三河の牛久保出身の家で、藩士の心得として「常在戦場」の言葉を伝えた、質実剛健の家風で知られました。
幕末の長岡藩では、家老の河井継之助が藩政改革を進め、ガトリング砲などの最新の武器をそろえて、新政府にも旧幕府にもつかない「武装中立」をめざしました。しかし慶応四年(1868)五月、小千谷での新政府軍との会談(小千谷談判)が決裂し、長岡藩は奥羽越列藩同盟に加わって北越戦争に突入します。長岡城は落とされ、取り戻し、再び落とされ、継之助は戦傷がもとで会津へ向かう途中に亡くなりました。
戦後、焼け野原となった長岡に、支藩の三根山藩から見舞いとして百俵の米が届けられたとき、藩の大参事・小林虎三郎はそれを藩士に分けず、学校の設立にあてました。「米百俵」として知られる話です。直寄が蔵王堂から移して築いた城下町は、こうして近代の教育の出発点の一つになりました。
蔵王権現の門前と、沢庵を匿った堀直寄
古志長尾氏の城と蔵王権現
新潟県の資料によると、蔵王堂城はもともと越後守護上杉氏の重臣・古志長尾氏が蔵王堂の脇に築いた城です。鎌倉時代に蔵王大権現を迎えて門前町として栄えました。金峯神社では毎年11月5日に「王神祭」が行われ、信濃川で獲れた鮭を、神官が手を触れずにさばいて神前に供えます。
後見役としての入城
慶長9年(1604)ごろ、堀親良の養子・鶴千代(堀秀治の次男)の後見役として、坂戸城主の堀直寄が蔵王堂に入ったとされます。直寄は大坂夏の陣で後藤基次の隊を破り、元和4年(1618)には10万石で村上城へ入って、近世の城郭として完成させました。家康の臨終の枕元に呼ばれた一人ともいわれます(矢橋藩の市橋長勝も参照)。
沢庵と探幽の肖像
寛永4年(1627)に沢庵が罪に問われたとき、直寄は天海や柳生宗矩とともに赦免に動き、その後沢庵を江戸の別邸に住まわせたと伝わります。寛永13年、直寄の還暦祝いに狩野探幽が描いた肖像画「絹本著色堀直奇像」には、沢庵ら大徳寺の僧が賛を書いています。この肖像画は令和8年(2026)、新潟県文化財保護審議会が県指定にすべきと答申しました。
考察:武将と禅僧の友情
戦場で名を上げた直寄が、権力に睨まれた禅僧を守り、その禅僧が直寄の肖像に言葉を寄せた。蔵王堂藩は短命でしたが、そこにいた人物は、武と禅をつなぐ江戸初期の文化人でもありました。



