曾我野藩/戸田家1万1千2百石:戸田忠綱 明治初期に下野高徳藩から移封により立藩

曾我野藩 戸田家1万1千2百石 最後の藩主 戸田忠綱
目次

曾我野藩の歩み

江戸時代の曾我野村は、房総往還沿いの湊としてにぎわった村で、幕府の直轄領と旗本領が入り交じる相給の村でした。明治二年(1869年)に葛飾県が置かれると、その管轄となり、明治三年(1870年)三月には、下野国高徳藩知事であった「戸田忠綱」が曾我野に移封となりました。ここに「曾我野藩」が立藩されました。翌明治四年(1871年)、七月の「廃藩置県」によって曾我野藩は曾我野県となり、同年十一月には印旛県に併呑されました。

一年四か月で消えた藩です

曾我野藩の存続は明治三年(1870年)三月から明治四年七月十四日まで。一年四か月ほどでした。

前身は下野国の高徳藩です。慶応二年(1866年)三月、宇都宮藩の戸田家から一万石を分与された戸田忠至が立てました。所領は下野に千七百三十五石、河内に五千二百六十五石、そして新田三千石という分散したものでした。

戸田忠至という人

この戸田忠至が、幕末に一つの仕事をしています。荒れ果てていた歴代天皇の陵墓を修復する事業—山陵修補を主導した人物です。その功績で大名に取り立てられました。

高徳の地は戊辰戦争の戦場になります。高徳藩は新政府軍の側で宇都宮城の攻防に加わったとする資料もあります。

下総へ移されて

明治二年に子の戸田忠綱が家督を継ぎ、明治三年三月、下野と河内の所領を取り上げられて下総に替地を与えられました。移った先が千葉郡曾我野村—現在の千葉市中央区蘇我です。

石高は一万千百三十九石余(一万千二百石とする資料もあります)。忠綱は曾我野藩知事となりました。

そして明治四年七月、廃藩置県で曾我野県となり、十一月には印旛県へ統合されます。戸田家はのちに子爵となりました。

陣屋跡は千葉市中央区蘇我三丁目にありましたが、周辺の都市化が進み、いまは残っていません。

陣屋の跡は、道路の線だけ

藩庁の場所は、明治九年(1876年)の「蘇我野村字限図」に残る旧小字「陣屋」をもとに、千葉市中央区蘇我三丁目と考えられています。陣屋には土塁と堀がめぐらされていたとされますが、所在については書物によって説明に食い違いもあります。

ただし周辺は都市化が進み、かつての敷地の境を思わせる道路の線形のほかには、陣屋の面影はほとんどありません。残っているのは、道の曲がり方だけです。曾我野藩や曾我野陣屋にかかわる文化財の指定もなく、一年四か月の藩のためにどれほどの建物が建てられたのかも、わかっていません。

「そが」という地名

曾我野の地名の由来には三つの説があります。蘇我比咩神社の社名から取ったという説、蘇我部の開拓地だという説、それに乙橘姫の伝説にもとづくという説です。表記も動いていて、天正の頃は「曽我野」、慶長から延享の頃は「曽我野郷」、江戸期から明治初期は「蘇我村」あるいは「曽我野村」と書かれました。明治二十二年の町村制で蘇我野村となり(翌年に蘇我町と改称)、昭和十二年に千葉市へ合併しています。

隣は一万石の生実藩

曾我野の南およそ二キロには、生実藩(森川家一万石)がありました。石高もほとんど同じ一万石ですが、こちらは寛永年間から幕末まで続いた藩です。千葉市指定史跡の「森川家累代の墓碑」(昭和四十二年指定、中央区生実町)には墓碑四十九基が並び、初代重俊・正室・二代重政の三基は高さ二・八メートルを超える板碑型です。

同じ石高の藩が二キロ離れて並び、一方は二百数十年分の墓碑を残し、もう一方は道路の線形だけを残した—その対比が、この土地の近世を物語っています。

房総に生まれた二十数県

曾我野県は明治四年七月十四日から十一月十三日までの約四か月でした。ただ、これを「日本で最も短命な県」と呼ぶのは正確ではありません。廃藩置県のあと、房総には二十四県(二十六県とする説明もあります)が生まれ、明治四年十一月の統合で印旛・木更津・新治の三県にまとめられました。同じくらい短命な県が房総だけで二十以上あったわけです。そして明治六年六月十五日、木更津県と印旛県が合併して千葉県が生まれました。

藩主については、高徳藩のページにも書いたとおり、戸田忠綱が明治十五年六月二十九日に隠居し、子の戸田忠義が明治十七年七月八日に子爵を授かっています。華族令の制定は同月七日で、授爵はその翌日です。忠義は明治三十年七月十日に貴族院議員となり、同三十三年九月二十九日に辞職しました。

山陵修補の忠至と、陣屋のなかった高徳

宇都宮藩家老から大名へ

前身の高徳藩は慶応2年(1866)3月、宇都宮藩7万7千石余のうち1万石を分けて立藩しました。藩祖の戸田忠至は通称を間瀬和三郎といい、宇都宮藩主戸田忠寛の孫で、間瀬家を継いで弘化元年(1844)に家老となった人物です。

一度も来なかった藩主

忠至は天皇陵の修補にかかりきりで、一度も高徳に赴任しませんでした。明治2年(1869)7月、忠綱は「高徳に陣屋がない」ことを理由に東京に残りたいと願い出ています。慶応2年の凶作では領内8か村に200両を貸し付け、慶応4年6月には大原村・藤原村が戦場となって、両軍が村に火を放ちました。忠至は新政府の参与兼会計事務掛となり、明治2年には山陵修補の借金の穴埋めとして7千両を受け取っています。

曾我野浦の湊

移った先の曾我野は湊としてにぎわい、東金や九十九里の産物を江戸へ運んでいたとされます。近くの寒川や浜野の港からは五大力船で江戸へ物資が運ばれていました。一方、高徳の領民は日光県への編入に強く反対し、高徳藩か宇都宮藩に治めてほしいと何度も嘆願しましたが、受け入れられなかったといいます。

考察:陵墓修理が生んだ藩

高徳藩は、天皇陵の修補という功績に報いるために作られた藩でした。領地を治める実体がほとんどないまま、幕末の尊王の空気が一つの大名家を生みました。藩とは何かを考えさせる珍しい例だと思います。

曾我野藩をもっと詳しく

最後にできた藩が、下総へ移るまで

曾我野藩の前身の高徳藩は、慶応2年(1866年)3月21日に本家の宇都宮藩から1万石を分けられて生まれた藩で、日本で最後にできた藩とされます。その領地のうち下野の村々は、明治3年(1870年)3月19日に日光県へ組み入れられ、5月9日には実際の支配も日光県に移りました。高徳藩は下野と河内の領地を手放す代わりに、下総国の千葉郡と印旛郡で1万1139石余りを与えられ、藩の名も曾我野藩に改まります。新しい石高は高徳藩の1万石よりわずかに多く、領地に暮らす人は1万人あまりでした。下野の山あいから房総の海辺へ、藩の土地がそっくり入れ替わったことになります。

18か村の藩と、戊辰の曾我野

曾我野藩の領地は、千葉郡などの18か村でした。藩庁が置かれた曾我野村は、藩ができるわずか2年前にも戦乱の舞台になっています。慶応4年(1868年)閏4月、房総で旧幕府の撤兵隊が敗れると、薩摩藩、長州藩、岡山藩などの新政府軍が曾我野に駐屯しました。近くの寒川には大村藩の兵も入っています。新政府軍が兵を置いた湊の村に、2年後には天皇陵の修補で知られた戸田家が藩庁を構えることになったのです。

明治天皇に馬術を教えた藩知事

曾我野藩知事となった戸田忠綱は、天保11年(1840年)12月3日に戸田忠至の長男として生まれました。母は中島六郎の娘の新子です。父と同じく和三郎を通称とし、間瀬の姓を名乗っていた時期もありました。父が天皇陵の修補に力を注いでいたころ、忠綱も慶応3年(1867年)に山陵奉行見習に任じられ、父の仕事を支えました。明治元年(1868年)には、即位してまもない明治天皇に馬術を指導しています。

明治2年(1869年)5月に父の隠居を受けて家督を継ぎ、翌6月に藩知事となりました。明治3年に藩庁を下総の曾我野陣屋へ移して曾我野藩知事となりますが、明治4年(1871年)の廃藩置県で職を解かれます。その後、明治15年(1882年)6月に長男の忠義へ家督を譲って隠居し、大正11年(1922年)1月28日に83歳で亡くなりました。幕末に天皇陵の修補を見届け、明治の宮中で若い天皇に馬術を教え、大正まで生きた人物です。

1万1千石の藩が出す兵の目安

慶安2年(1649年)に定められたとされる軍役の規定(案)は、1万石あたり235人を基準にしていました。曾我野藩の1万1千石に当てはめると、目安はおよそ260人です。ただしこの規定は案のまま発布されなかったという説もあり、明治3年から4年にかけて存在した曾我野藩の時代は、すでに新政府のもとで藩の兵制が改められていく時期にあたりました。あくまで藩の大きさをはかる物差しとして見るのがよいでしょう。

陣屋の町から工業の町へ

曾我野藩が消えたあと、曾我野村は明治22年(1889年)の町村制で蘇我野村となり、のちに蘇我町を経て千葉市に入りました。昭和の初めには蘇我や今井の地先を埋め立てる計画が決まり、昭和25年(1950年)には製鉄所の誘致が決まります。かつて五大力船が行き来した遠浅の海辺は、こうして臨海の工業地帯へと姿を変えました。陣屋跡とされる蘇我三丁目は、その工業の町の内陸側にあたります。

一門の重臣から大名、そして華族へ

戸田家は、宇都宮藩主家の一門で、藩の重臣の家でした。忠至が家老から大名に取り立てられ、子の忠綱が藩知事となり、孫の忠義が明治17年(1884年)に子爵を授かります。高徳藩として4年、曾我野藩として1年4か月と、藩としての歩みはごく短いものでしたが、天皇陵の修補という一つの仕事が、この家を三代にわたって押し上げたといえます。

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