【藩名】
鳩ヶ谷藩
【説明】
小田原征伐後、関東に入封した「徳川家康」は、譜代の家臣「阿部正勝」に鳩ヶ谷で5000石を与えました。慶長5年(1600年)4月に正勝は大坂で死去し、後を子の「阿部正次」が継ぎました。正次は「関ヶ原の戦い」で戦功を挙げたため、相模国内に5000石を与えられ、父の遺領と併せて1万石の所領を領して大名となりました。これに伴い鳩ヶ谷藩を立藩しました。
その後、大番頭、伏見城番などを歴任し、「大坂の陣」でも戦功を挙げた正次は3万石にまで加増され、元和3年(1617年)9月には上総国大多喜藩へ移され、ここに鳩ヶ谷藩は廃藩となり天領となりました。
【廃藩のあと——幕末の鳩ヶ谷】
元和三年(1617年)に阿部正次が上総大多喜へ移って廃藩となり、その所領は幕府領となって関東郡代・伊奈氏の支配下に入りました。ただし幕末の時点で鳩ヶ谷の各村がどう分かれていたかは、確かめられませんでした。幕府領が基本線だったとまでは言えます。
正直に書きますが、幕末の鳩ヶ谷で戦や一揆が起きた記録はありません。戊辰戦争の戦場にもなっていません。この土地の幕末は、街道と市の賑わいのほうにあります。
鳩ヶ谷は日光御成道の宿場でした。将軍が日光へ社参するときに通る道です。享保十六年(1731年)から市が立ち、「三・八市」として農産物や織物、農具が集まる近郊経済の中心になりました。
人物では小谷三志がいます。鳩ヶ谷宿の味噌屋の家に生まれ、富士信仰を発展させて「不二道」を興した民衆宗教家です。居宅跡は埼玉県の旧跡に指定されています。
そしてこの町には、幕末から維新への切り替わりを示す実物が残っています。「五榜の掲示」の高札が二種、川口市の文化財として現存しているのです。慶応四年三月、新政府が全国に掲げさせたあの高札です。藩が消えて二百五十年たった町に、新しい世の最初の触書が残されていることになります。
宿場としての町割りもよく残り、登録有形文化財の老舗の店構えが並びます。郷土資料館には本陣の復元模型があります。
【場所・アクセス・地図】

