中津山藩(仙台藩支藩)/伊達家3万石:伊達村和 供の者が江戸城登城中に旗本と刃傷に及び改易となった中津山藩

中津山藩(仙台藩支藩) 伊達家3万石 最後の藩主 伊達邦賢

中津山藩(仙台藩支藩)

目次

藩の歩み

元禄八年(1695年)七月六日、仙台藩4代藩主「伊達綱村」が同母弟の「伊達村和」に桃生郡中津山ほか三万石を分知する内分分家の設立を認められ、中津山藩が立藩しました。石高の内訳は知行地一万五千石と、仙台本藩からの蔵米一万五千石です。当初は仙台藩の麻布下屋敷を仮の藩邸としていましたが、翌元禄九年(1696年)一月十一日に六本木に藩邸が落成し、十月二十八日に中津山を藩庁とすることが公的に確認されると、次第に中津山藩は藩としての体裁を整えていきました。

ところが元禄十二年(1699年)九月九日、江戸城へ登城する途中、藩主・伊達村和の行列の供の者が、行列を横切った旗本の岡孝常ともみ合いになって傷を負わせてしまいます。村和は九月二十六日に謹慎を命じられ、ついには領地を取り上げられました。「伊達村和」の身柄は兄「伊達綱村」預かりとなり、中津山藩の所領は仙台藩に戻され、六本木の藩邸も仙台藩の所有地となりました。

中津山藩がなくなったあと、村和は宮城郡の野村で20年もの間、門を閉ざして暮らすことを強いられ、許されてから3年後の享保七年(1722年)に亡くなりました。同じ年、村和の長男の伊達村詮が柴田郡の川崎要害を与えられて二千石を知行し、子孫は幕末までこの地を治めます。

最後の川崎領主「伊達邦賢」は、慶応四年(1868年)の「戊辰戦争」で仙台本藩が敗れたため、先祖代々の川崎領を失いました。その後、明治十年(1877年)に西南戦争が起こると、子の基煕・煕信とともに旧家臣たちを率いて、西郷軍の討伐に加わっています。

本家・仙台藩との関係

中津山藩は、陸奥の仙台藩(伊達家)の支藩で、伊達家の分家が三万石を領しました。

ただし、この藩は幕末まで続いた藩ではありません。藩主 伊達村和の供の者が、江戸城へ登城する途中で旗本と刃傷に及ぶ事件を起こし、改易・廃藩となりました。以後、その地は本家・仙台藩が治めています。幕末の仙台藩の動きは本家のページをご覧ください。

藩庁は石巻の桃生、住まいは六本木

中津山は桃生郡中津山、現在の宮城県石巻市桃生町中津山にあたります。ただし史料に出てくるのは「中津山所」という呼び方だけで、陣屋や館が実際に建てられたのかはわかっていません。藩主が住んだのは江戸六本木の藩邸でした。三万石の藩でありながら、藩庁の建物がどうだったのか分からない藩です。

その三万石の内訳は、知行地一万五千石と仙台本藩からの蔵米一万五千石。半分は本藩から現物で受け取る形でした。内分分家という仕組みの実際が、この内訳に出ています。

斬ったのは、藩主ではありません

元禄十二年九月九日の刃傷は、村和本人ではなく供回りの者が起こしたものです。行列を横切った旗本 岡孝常と争いになり手傷を負わせました。九月二十六日に謹慎、十月二十八日に兄 綱村の願いもあって改易。所領三万石は仙台藩に戻されました。藩主が斬ったのではなく、家来の喧嘩で藩が消えたことになります。

二十年の逼塞

村和は宮城郡野村に逼塞し、毎年金二百両と米二千石を支給されました。逼塞は二十年に及び、享保四年十二月十八日に赦免。翌年九月に出家して定岳と号し、享保七年六月二十九日に六十二歳で亡くなっています。

川崎要害という終点

長男の伊達村詮は元禄十年五月十七日、六本木の中津山藩邸で生まれました。享保七年に一門第九席に列して柴田郡川崎要害を拝領し、知行二千石。享保八年に川崎へ入り、以後幕末まで同地を治めます。三万石から二千石へ落ちましたが、家は残りました。

川崎要害は現在の宮城県柴田郡川崎町の川崎城跡(城山公園)です。砂金氏十一代が慶長十三年に築いて元禄十五年まで居城とし、砂金氏のあと伊達氏が最上との境の要衝として一門を配したとされます。築城を慶長九年とする資料もあります。遺構は切岸ほどで、二の丸跡の付近に川崎小学校が隣接しています。

最後の川崎領主

伊達邦賢(くにかた)は天保八年生まれ。天保十四年閏九月に家督と二千石を継ぎ、慶応二年四月に千石加増で三千石。慶応四年の仙台本藩の敗戦で川崎領を失いました。明治十年の西南戦争には、子の基煕・煕信と旧臣五人を率いて徴募に応じ、大隊を指揮しています。戦後は東京へ移り、伊達伯爵家と警視庁の剣道師範を務めました。亡くなったのは明治十四年十二月三日、四十五歳です。

なお、邦賢を川崎伊達家の何代目と数えるかは資料によって違い、六代とする資料も八代とする資料もあります。

伽羅先代萩の子と、一度も来なかった領地

伊達騒動の家族

藩主・伊達村和の父は、「伊達騒動」で隠居させられた仙台藩3代藩主・伊達綱宗です。母の三沢初子は、歌舞伎『伽羅先代萩』の乳母・政岡のモデルといわれます。村和は江戸の品川屋敷で生まれ、幼名を鶴千代、元服名を田村顕孝といい、のちに村任、村和と名を改めました。

水沢伊達家から大名へ

村和は藩主になる前、水沢伊達家の5代当主でした。中津山藩を立てるとき、水沢の家督は甥の伊達村景に譲っています。正室は三沢宗直の娘とされます。知行地は桃生郡7か村と栗原郡4か村で、町場の寺崎宿にちなんで「寺崎藩」と呼ぶ資料もあります。

土器町事件

改易のきっかけになった事件は「土器町事件」と呼ばれます。村和は中津山に一度も入らないまま、藩は終わりを迎えたとされます。

考察:芝居の母と現実の子

母は芝居の中で忠義の乳母として永遠に語り継がれ、子は一度も領地を見ずに藩を失った。伊達騒動という同じ出来事から生まれた、物語と現実の落差を感じずにはいられません。

中津山藩をもっと詳しく

名前を4度変えた藩主

伊達村和は、生涯のうちに何度も名前を変えた人でした。元服のときに烏帽子親を務めたのは、伯父で岩沼の領主だった田村宗良です。この縁から、村和は最初「田村顕孝」と名乗りました。

延宝3年(1675年)、水沢伊達家4代の伊達宗景が跡継ぎのないまま亡くなると、兄・綱村の意向で村和がその跡に入り、「伊達顕孝」と改めます。延宝5年(1677年)には水沢要害に入るのにあわせて兄から一字をもらい「村任」と改名しました。そして元禄8年(1695年)7月6日に中津山藩主となったときに「村和」と名乗り、同じ年の12月18日に従五位下・美作守に叙されています。田村顕孝、伊達顕孝、村任、村和と、立場が変わるたびに名前も変わりました。

烏帽子親・田村宗良

村和の烏帽子親となった田村宗良は、寛永14年(1637年)に仙台藩2代藩主・伊達忠宗の三男として生まれた人で、村和の父・綱宗の弟にあたります。はじめは仙台藩の重臣・鈴木家の名跡を継いでいましたが、承応2年(1654年)、祖母の陽徳院(愛姫)の遺言によって、愛姫の実家である田村家の名を再興しました。愛姫は伊達政宗の正室で、戦国時代に三春を治めた田村清顕の娘です。

万治3年(1660年)、綱宗が隠居させられて幼い綱村が藩主になると、宗良は伊達宗勝とともに後見役を務めます。しかし寛文11年(1671年)の伊達騒動では事態を収めることができず、連座して閉門の処分を受け、翌年に許されました。和歌や書にすぐれた温和な人柄だった一方、気の弱さが宗勝の専横を許したともいわれます。

11か村の知行地

中津山藩の3万石のうち、知行地の1万5,000石は2つの郡に分かれていました。桃生郡では中津山・寺崎・牛田・倉埣・脇谷・永井・太田の7か村、栗原郡では猿飛来・平形・岩崎・大原木の4か村です。残りの1万5,000石は仙台本藩から米で受け取る分でした。

中津山藩を「水沢藩」と呼ぶ文献もありますが、これは混同です。村和が立藩の直前まで水沢伊達家の当主だったためで、「水沢藩」は水沢伊達家の領地を指す俗称にすぎず、中津山藩とは別のものです。

仙台藩の3つの「3万石」

仙台藩から3万石を分けられて大名になった家は、中津山藩のほかに2つあります。万治3年(1660年)に一関に陣屋を置いた伊達宗勝の一関藩と、田村宗良の岩沼藩です。いずれも将軍から直接に領地の朱印状を受けたのではなく、幕府が仙台藩に出した領地の判物の中に「内分」として書かれるだけの存在でした。一関藩の場合は、法令や財政でも仙台藩の方針に従うことを求められていました。その一方で、自前の家臣団と年貢を集める仕組みを持ち、財政が苦しいときには仙台藩から1回につき2,000〜3,000両の援助を受けていました。

3つの家の運命は分かれました。伊達宗勝は寛文11年(1671年)、伊達騒動で失脚して土佐藩に預けられ、一関藩は改易されます。田村家は延宝9年(1681年)に岩沼から一関へ移り、幕末まで続きました。そして3番目の中津山藩は、立藩から4年あまりで改易されています。3つの分家大名のうち2つが途中で取りつぶされたことになります。

軍役の目安

慶安2年(1649年)に幕府が定めたとされる軍役の規定(案)では、1万石の大名が出す人数は235人とされていました。これを石高に比例させて十人単位に丸めると、3万石の中津山藩の動員兵力はおよそ710人が目安になります。ただしこの規定は案にとどまり、実際には発布されなかったとする説もあります。中津山藩の場合は3万石の半分が本藩からの蔵米で、藩主も江戸の仙台藩の屋敷や六本木の藩邸で暮らしていたため、この人数を自前の領地だけでどこまでまかなえたかはわかっていません。

場所・アクセス・地図

参考資料:Wikipedia日本語版「中津山藩」ほか、自治体・博物館の公開資料。複数の資料を読み比べ、運営者の言葉でまとめています。

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