黒坂藩/関家5万石:関一政 家中の内紛により改易・廃藩

【藩名】
黒坂藩

【説明】
慶長14年(1609年)に「中村一忠」が死去して中村氏が改易されると、伯耆国には諸大名が分散されて配置されることになります。そして翌年、伊勢亀山藩から「関一政」が2万石加増の上の5万石で黒坂藩に入り黒坂藩が立藩されました。

一政は築城や城下町建設で尽力し藩政の確立に努め、大坂の陣においても戦功を挙げたが、元和4年(1618年)7月、家中における内紛を理由に幕命にて改易され黒坂藩は廃藩となりました。その後、その所領は因州池田氏の属領となりました。

【廃藩のあと——幕末の黒坂】

まず場所です。黒坂は鳥取県日野郡日野町黒坂にあたります。日南町とする資料がありますが、日野町です。

関一政は慶長十五年(1610年)に五万石で入り、慶長十七年に着工して慶長十九年(1614年)に黒坂城(鏡山城)を完成させました。ところが元和四年(1618年)七月、家中の内紛を理由に幕命で改易されます。城が完成した年は大坂冬の陣の年で、その四年後には藩が消えていたことになります。所領は池田家のものとなり、以後幕末まで鳥取藩領でした。

この日野郡の幕末を語るなら、たたら製鉄を外せません。鳥取藩は隣の松江藩とは対照的な政策を取りました。松江藩が鉄座による専売制を敷いたのに対し、鳥取藩は鉄山師に鑑札を出す許可制です。炉に百二十匁、大鍛冶場に六十匁の運上を納めれば参入できました。元禄年間にごく短期間だけ藩直営を試みましたが、民間の意欲を削ぐとしてやめています。

安永九年(1780年)に大坂へ鉄座が置かれて鉄の値が乱れると、藩は三つの手を打ちました。寛政十二年(1800年)に米子港へ集荷する廻船制度、文化十三年から文政六年にかけて大坂の仲買を飛ばす江戸直送の試み、そして天保六年(1835年)の境港会所です。江戸直送はうまくいきませんでした。

日野町には幕末から明治のたたら遺跡である都合山たたら跡が県の史跡として残ります。黒坂城跡は標高三百八十メートルの平山城で、石垣・土塁・郭・堀・井戸が残り、地元の有志が整備しています。

【場所・アクセス・地図】

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