村岡藩/山名家1万1千石:山名義路 当主自ら尊王論者で新政府軍に従属した村岡藩

村岡藩 山名家1万1千石 最後の藩主 山名義路
目次

村岡藩の歩み

因幡の鳥取城を追われた山名豊国は、その後豊臣秀吉に仕えて話し相手の御伽衆となり、秀吉が亡くなると徳川家康に近づきました。関ヶ原の戦いでは東軍に加わって働き、家康から「但馬で一郡を治めよ」と言われて但馬の七美郡六千七百石をもらいます。豊国は兎束村に陣屋を置き、この地の名を福岡と改めました。石高は大名の基準の一万石に届きませんでしたが、室町時代の名門・山名氏の家柄ということで旗本の中でも特別扱いを受け、のちに参勤交代をする「交代寄合」の家に数えられました。

豊国は連歌の名手でもある教養人で、名家の出ということもあって家康に大切にされました。家康に願い出て、落ちぶれていた但馬山名氏の一族を旗本に取り立ててもらうなど、山名家の立て直しに力を尽くしています。かつて自分を城から追い出した旧家臣たちが、行き場もなくさまよっていると聞くと、あらためて召し抱えたとも伝えられます。寛永十九年(1642年)、3代の矩豊が陣屋を黒野村へ移し、地名を村岡と改めました。これが「村岡山名家」の名の起こりで、幕末に石高を見直して一万一千石となり、晴れて村岡藩として大名に列しています。第5代当主の「山名豊就」は江戸幕府寺社奉行となり、第8代当主「義方」が陣屋を尾白山に移し家格にふさわしい体裁を整えました。

幕末の動乱の中で当主「山名義済」は早くから尊王論者として新政府軍に協力しており、新政府から所領を一万一千石と認められて大名に列し、村岡藩が成立しました。その時期は、慶応四年(1868年)六月二十日とする資料と、明治二年(1869年)とする資料があります。明治三年(1870年)六月二十三日には村岡藩知事となりましたが、翌明治四年(1871年)二月十一日、長男の「山名義路」に家督を譲って隠居しました。

最後の村岡藩知事「山名義路」は12歳で家督を相続し、後に陸軍少佐となりました。

「六分一殿」山名氏の末裔と陸軍軍人となった義路

村岡藩山名家は、かつて全国66か国のうち11か国の守護を兼ね「六分一殿」と称された室町時代の名門・山名氏の末裔にあたります。最後の藩主義路は陸軍士官学校を卒業して軍人となり、輜重兵少佐まで昇進して軍法会議判士なども務め、明治十七年(1884年)には男爵に叙せられました。

応仁の乱の西軍総大将の家

村岡山名家の先祖・山名氏は、室町時代に一族で十一か国の守護を兼ね、「六分一殿」と呼ばれた名門です。応仁元年(1467)に始まった応仁の乱では、山名宗全(持豊)が西軍の総大将として、東軍の細川勝元と京都で十年あまり戦いました。その後、山名氏は但馬と因幡を中心に勢力を保ちましたが、戦国時代には毛利氏と織田氏のあいだで次第に力を失っていきます。

鳥取城を追われた山名豊国

村岡山名家の祖・山名豊国は、因幡の鳥取城の主でした。天正八年(1580)、羽柴秀吉の軍に城を囲まれると降伏を決めますが、毛利方につくことを望む家臣たちに城を追われます。家臣たちは毛利家から吉川経家を城将に迎え、翌天正九年、秀吉の徹底した兵糧攻めを受けました。「鳥取の渇え殺し」と呼ばれる凄惨な籠城の末、経家は城兵の命と引き換えに自刃しています。

城を出た豊国は、そのまま生き延びて秀吉の御伽衆となり、のちに家康に仕えて但馬に領地を得ました。家臣に見捨てられた主君が、城に残った側よりも長く家を伝えたことになります。豊国が、自分を追い出した旧臣たちをあらためて召し抱えたという話は、この経緯を知るといっそう重みを持ちます。

幕末の但馬

村岡山名家が新政府に協力した背景には、但馬という土地の空気もありました。文久三年(1863)十月には、同じ但馬の生野で、公家の沢宣嘉や福岡藩を脱藩した平野国臣らが尊攘派の挙兵を起こしています(生野の変)。挙兵はすぐに鎮圧されましたが、但馬は早くから尊王攘夷の動きが表に出た土地でした。

「百分一殿」の家—山名豊国の子孫と村岡

六分一殿から、百分一殿へ

村岡藩の山名家は、室町時代に全国六十六か国のうち十一か国を治め「六分一殿」と呼ばれた山名氏の子孫です。藩祖の山名豊国は、母が細川高国の娘とされる名門の出でした。家康に古い羽織をとがめられて「足利将軍からの拝領品です」と答えた話や、自分を「六分一殿ならぬ百分一殿」と言って家康を苦笑させた話が伝わります。豊国は、自分を追放した武田高信の遺児を探し出して召し抱えたともいわれます。

交代寄合から大名へ

山名家は江戸時代のほとんどを、六千七百石の旗本として過ごしました。参勤交代をする交代寄合で、江戸屋敷は鉄砲洲、のちに本所四ツ目にありました。五代の山名豊就は元文四年(1739年)に寺社奉行となり、同じ年に領内で起きた小代一揆では、百姓の要求の多くを聞き入れて収めたとされます。幕末、十一代の義済は家老・池田勣一郎の進言で尊王に転じ、新田四千三百石が認められて一万一千石の大名となりました。

法雲寺と陣屋跡

山名家の菩提寺は、香美町村岡の法雲寺です。寛永十九年(1642年)に菩提寺と定められ、延享二年(1745年)には山名家の御霊屋が建てられました。陣屋は湯舟川の右岸、標高約二百五十メートルの台地にあり、大手門、中門、長屋、煙硝蔵、練兵場が置かれていました。昭和に県立高校の敷地となり、いまは御殿山公園です。最後の藩主・山名義路は陸軍士官学校を出て、貴族院の男爵議員も務めました。

名門は、小さくなっても名門だった

十一か国の守護から、但馬の山あいの六千石へ。それでも山名家は、家康を笑わせる機知と名門の誇りを持ち続け、最後には大名に返り咲きました。豊岡市の此隅山城跡・有子山城跡(国史跡)とあわせて訪ねると、山名氏の長い盛衰が見えてきます。

村岡藩をもっと詳しく

自分の城を、攻める側から見た豊国

鳥取城を追われた山名豊国は、秀吉に助命されたあと、天正9年(1581年)の二度目の鳥取城攻めに秀吉とともに加わっています。かつての居城が「渇え殺し」で落ちていくのを、攻める側から見ていたことになります(→鳥取藩)。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、因幡鹿野の城主・亀井茲矩の軍に加わって東軍として戦いました。亀井家はのちに石見の津和野へ移り、幕末まで続いた家です(→津和野藩)。その翌年の慶長6年(1601年)、豊国は但馬国七美郡の全域、6700石を与えられました。茲矩は天正9年に鳥取城が落ちたあと、秀吉から因幡の鹿野を任された武将です。豊国は、かつての自分の国を治める大名の陣に加わって天下分け目の戦いに臨んだことになります。上の段にある武田高信の遺児は名を助信といい、豊国から200石を与えられたとされます。

山名氏の「宗家」になった家

山名氏には、出石の此隅山城や有子山城を本拠とした但馬山名家(山名祐豊の系統)もありました。こちらの系統が途絶えたため、江戸幕府のもとでは豊国の系統が山名氏の宗家として扱われます。豊国は家康や秀忠の信頼を得て、駿府城の茶会などにも招かれました。それでも加増はなく、大名にはならないまま、寛永3年(1626年)10月7日に79歳で亡くなっています。子孫は表高家並寄合や交代寄合表御礼衆として、旗本のなかでも別格の家として続きました。1万石に届かない旗本でありながら、名門の宗家という看板を260年あまり守り続けたのです。

新田を開いた10代義問

幕末の義済の父・10代義問は、新田の開発と教育の振興に力を注いだ名君とされます。安政6年(1859年)7月28日、義問の隠居を受けて義済が家督を継ぎました。義問の時代、山名家はまだ6700石の交代寄合で、大名になるのは子の義済の代のことです。

長州征伐の負担から起きた一揆

慶応2年(1866年)、第二次長州征伐にともなう軍夫役の費用を米で割り当てられたうえ、米の値段が高くなったことから、領内全体にわたる一揆が起きました。山名家は農民の要求をほぼ受け入れて騒ぎを収めています。元文4年(1739年)の小代一揆のときと同じく、力で抑えるより要求をのんで収める対応でした。その後まもなく、山名家は大名に列します。

1万1000石の軍役は約260人

慶安2年(1649年)に幕府が定めたとされる軍役の規定(案)では、1万石につき235人を出すことになっていました。これを村岡藩の1万1000石に当てはめると、動員できる兵の目安はおよそ260人です。ただし、この規定は案のままで実際には発布されなかったとする説もあります。また山名家が大名だったのは明治4年(1871年)までのわずかな期間で、江戸時代の大半は6700石の旗本として過ごしています。

宿場町・村岡と、江戸の墓所

陣屋が置かれた村岡は、いまの国道9号にあたる山陰道の宿場町でもあり、陣屋とともに町場が栄えました。廃藩のあとも地域の中心であり続け、明治29年(1896年)には郡役所が置かれています。周りは標高1000メートル前後の山々に囲まれ、鉢伏山の斜面に広がる兎和野原は、いまも但馬牛の放牧地として知られます。この一帯は但馬杜氏のふるさととしても知られ、冬に酒造りの出稼ぎに出る人々を送り出してきました。村岡は廃藩置県で村岡県となり、豊岡県を経て明治9年(1876年)に兵庫県に入りました。

江戸での山名家の菩提寺は市谷の自證院でした。明治時代の区画整理で墓地が移されたため、山名家の墓所はいまの青山霊園に改められています。国元の法雲寺とあわせて、山名家の足跡は但馬と東京の両方に残っています。

場所・アクセス・地図

参考資料:Wikipedia日本語版「村岡藩」ほか、自治体・博物館の公開資料。複数の資料を読み比べ、運営者の言葉でまとめています。

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