山家藩の歩み
藩祖「谷衛友」は織田信長・豊臣秀吉に仕えて丹波国山家にて一万六千石を拝領しました。慶長五年(1600年)の「関ヶ原の戦い」では西軍に属して「小野木重勝」らと行動を共にし、東軍の細川藤孝(細川幽斎)の丹後国田辺城を包囲します。しかし、西軍に属したのは本意でなかったため、歌道の師匠でもあった藤孝に内々に通じており、そのため、戦後は「徳川家康」から所領を安堵されています。
山家藩は、明治時代まで谷氏13代の支配が続いた藩です。江戸期を通じて一族に領地を分与したため藩の最終的な石高は一万石となりました。慶応四年(1868年)一月十九日、幕末の藩主「谷衛滋」は王政復古で生まれた新政府の要請に応じて上洛し、明治天皇に拝謁します。そして「西園寺公望」が指揮する山陰道鎮撫軍に恭順しました。
明治維新の動乱においては、いち早く新政府軍に恭順を示したため無事に家名を存続しました。明治四年(1871年)、廃藩置県により山家県となり、その後京都府に編入されました。
丹波山家の谷家
山家藩は、丹波国何鹿郡(現在の京都府綾部市)に置かれた一万石の藩で、藩主は谷家、陣屋を構える小藩でした。由良川の流れる丹波の地を治めた、小さな大名家でした。
山陰道鎮撫軍に従う
戊辰戦争において山家藩は、新政府の要請に応じて上洛し、公家の西園寺公望が率いる山陰道鎮撫軍に恭順しました。京都に近い丹波の小藩として、いち早く新政府側につき、鎮撫総督の求めに応じて勤王の誓書を出したのです。畿内周辺の小藩が果たした役割の一つを示しています。
空鉄砲で家を残した初代
谷家の祖 谷衛好は美濃の出で、斎藤道三、次いで織田信長に仕え、秀吉が中国方面の司令官になるとその与力になりました。天正六年(1578年)に播磨平田城六千石。天正七年(1579年)九月十日、三木城攻めの最中に毛利勢の攻撃を受けて平田村で討死しています。五十歳でした。
子の衛友が山家一万六千石を領した時期については、秀吉に仕えて各地を転戦したのちとだけ伝える資料と、天正十年(1582年)ごろとする資料があります。関ヶ原後は新規の入封ではなく、所領の安堵でした。
その関ヶ原で、衛友は西軍として丹後田辺城を攻める側に加わりながら、歌道の師である細川幽斎と内々に通じ、攻撃では空砲を撃ったと伝わります。これが「谷の空鉄砲」です。戦後、幽斎・忠興父子が家康に報告したため所領は安堵されました。
六千石を三家に分けた
一万六千石が一万石になったのは、六千石を三家に分知したためです。衛之に二千五百石(上杉谷家)、衛清に二千石(十倉谷家)、衛冬に千五百石(梅迫谷家)で、いずれも将軍家直属の旗本になりました。分知したのを初代衛友とする説と二代衛政とする説があり、時期も衛友の死去(寛永四年)の前後で分かれます。衛友の死の翌年、寛永五年(1628)に六千石を分けて一万石になったとする資料もあります。
陣屋と山城は別の場所
谷氏陣屋跡は綾部市広瀬町上ノ町で、いまは山家城址公園です。門の建物が山家資料館になっており、谷氏の甲冑や古文書を展示しています。
一方、山家城=甲ヶ峯城は標高二百三十六メートルの山頂にある山城です。戦国期は和久左衛門佐の居城で、明智光秀の丹波攻略のとき、城内に照福寺があったことを盾に「ここは寺である」と称して破却を免れようとしましたが、天正八年(1580年)六月二十日に攻め落とされました。土塁と空堀が残り、伊也神社からの参道四百七十一メートルで本丸・曲輪・二の丸の遺構をたどれます。
鎮撫使は、山家を通っていない
山陰道鎮撫使の行程を復元した記録によると、西園寺公望は一月五日に蛤御門を出陣し、明智越えから馬路、亀山、園部、福住、篠山、柏原をへて一月十四日夕刻に福知山へ着きました。そして一月十五日、福知山で朽木家が降伏したとき、出石藩・綾部藩・山家藩に勤王誓書の提出を命じています。つまり本隊は綾部・山家を通っておらず、両藩は福知山へ呼ばれた形でした。
谷衛滋が上洛したのは一月十九日、明治天皇に拝謁したのが一月二十五日です。福知山での命令を受けた動きとして順序が合います。衛滋は安政二年十二月二十八日に末期養子として家督を継いだ人で、明治二年六月二十三日に知藩事、明治四年七月十五日に免官。明治七年(1874年)四月六日に亡くなりました。華族令は明治十七年七月七日ですから、子爵になったのは衛滋ではなく二男の谷寿衛です。
山家は山地が多く稲作に向かない土地で、紙と木が藩を支えたと言われます。寛政二年(1790年)には、黒谷の紙が京都で売られはじめたとされます。
常陸府中から来た最後の藩主と、由良川の要地
水戸の御連枝からの養子
最後の藩主・谷衛滋は、常陸府中藩主・松平頼説の五男です。谷衛弼の養子となり、安政2年(1855)に家を継ぎました。外様の小藩に、水戸徳川家の御連枝から養子が入ったことになります。家格は外様、殿席は柳間とされます。
検地と分知
貞享3年(1686)の全領検地では7千石の打ち出しがあったとされます。
由良川と街道の交わる地
山家は由良川と上林川が合流する地点にあり、田辺(舞鶴)と京都を結ぶ京街道が通り、若狭街道も分かれる交通の要地でした。谷家の家紋は揚羽蝶で、陣屋跡には石垣が残ります。陣屋跡から出土した徳利が綾部市資料館で展示されたこともあります。
考察:水戸の血が丹波の山里へ
攘夷の本場ともいえる水戸の一門から、丹波の小藩へ養子が入った。幕末の山家藩が新政府の要請に素早く応じた背景に、この縁が関わっていたのかどうか。確証はありませんが、考えてみたい点です。
山家藩をもっと詳しく
関ヶ原のあとの知行目録
谷衛友の領地が徳川の世でも認められたことは、慶長6年(1601年)の知行目録で確かめられます。何鹿郡の北部から中部にかけての1万6000石で、これが江戸時代を通じた谷家の領地の土台になりました。衛友が攻めた丹後田辺城の細川家のとりなしがあったとされ、衛友はその後、大坂の陣にも徳川方として従軍しました。衛友は寛永4年(1627年)に亡くなり、翌年に2代衛政が1万石で継いでいます。以後、衛広、照憑、衛衝、衛将、衛秀、衛量、衛万、衛弥、衛昉、衛弼と続き、13代の衛滋のときに明治を迎えました。江戸城での席は外様の小大名が詰める柳間でした。
黒谷和紙と梅迫騒動
山がちで稲作に向かない谷家の領地で、名産として知られたのが黒谷の紙です。平家の落ち武者が子孫の生業として始めたという言い伝えがありますが、寛政年間と明治半ばの大火で古い記録の多くが焼け、始まりははっきりしません。黒谷村は谷家の領地でしたが、寛永5年(1628年)に分家の旗本が立てられると、梅迫谷家の領地に入りました。元禄年間には代官が資金を貸して紙漉きを盛り立て、傘紙などの厚い紙を中心に京都へも売り広めています。嘉永6年(1853年)には代官所が紙会所を設けて生産者をまとめましたが、安政6年(1859年)に紙の専売を図ると農民が反発し、梅迫騒動が起きました。このとき代官の十倉氏は追放されています。それでも文久2年(1862年)には、領主の谷帯刀が庄屋に対し、紙漉きを支えるので続けるようにと申し渡した文書が残っており、紙は領地にとって手放せない稼ぎでした。明治に入ると紙会所の統制がなくなって誰でも作って売れるようになり、明治25年(1892年)には水口半次郎が共同販売の組織をつくり、明治28年(1895年)には高知県から技術を取り入れて大きな判の紙も漉けるようになりました。黒谷和紙は昭和58年(1983年)に京都府の無形文化財となり、二条城の障子紙など文化財の修理にも使われています。平成17年(2005年)には廃校の校舎を使った「黒谷和紙工芸の里」が開かれ、いまも集落のほぼすべての家が何らかの形で紙づくりに関わっています。
最後の藩主の子どもたち
13代衛滋は安政4年(1857年)12月に従五位下・大膳正に叙任されました。子の二男・寿衛は、もとの名を益道といい、明治4年(1871年)の生まれで、東京帝国大学の法科を出て子爵家を継ぎ、大正6年(1917年)に隠居しています。また、下野黒羽藩の大関増勤を衛滋の子とする説もあります。増勤は黒羽藩主・大関増裕の養子となり、増裕の急死後に家を継いだ人です。増裕は幕府の海軍奉行や若年寄を務めた人物でした。丹波の1万石の小藩と、北関東の黒羽藩が、養子を通じてつながっていたことになります。
動員兵力の目安
慶安2年(1649年)に幕府が定めたとされる軍役の規定では、1万石あたり235人を出すことになっています。山家藩の1万石に当てはめると、目安はおよそ240人です。ただしこの規定は案にとどまり、正式には発布されなかったとする説もあります。分知前の1万6000石のままなら、およそ380人を求められたことになります。
隣の綾部藩との違い
同じ何鹿郡には、九鬼家の綾部藩がありました。どちらも城を持たない陣屋の小藩で、慶応4年(1868年)の正月には山陰道鎮撫総督の西園寺公望に帰順しています。ただ、綾部藩が九鬼水軍の流れをくむ家だったのに対し、山家藩の谷家は美濃出身で織田・豊臣に仕えた武将の家で、関ヶ原では西軍に名を連ねながら領地を守った家でした。明治2年(1869年)には華族に列し、明治17年(1884年)に子爵となっています。



