【藩名】
長浜藩
【説明】
長浜は今浜と呼ばれていたが「羽柴秀吉」が「織田信長」から浅井氏の旧領を与えられた際に、信長の一字を取って長浜と改めました。秀吉の後は「柴田勝豊」や「山内一豊」「石田三成」らが城主を治めました。

関ヶ原の戦い後の慶長11年(1606年)、豊臣秀頼の動静を監視するために「内藤信成」が駿河国府中から移封されて長浜藩が立藩されました。
この転封にあたり長浜城の修築費として江戸幕府より白銀5千枚を与えられました。元和元年(1615年)、信成の子「内藤信正」の時代に大坂に近い摂津国高槻へ転封となり長浜藩は廃藩となりました。
※長浜城本丸跡
【場所・アクセス・地図】
長浜藩をもっと深く——幕末には、この藩は存在しない
はじめにお断りしておきます。当サイトは幕末を扱っているが、長浜藩は幕末には存在しません。この藩が置かれていたのは慶長十一年(1606年)から元和元年(1615年)までの、わずか十年ほどです。
豊臣を見張るための藩だった
関ヶ原ののち、内藤信成が近江長浜に四万石で入って立藩しました。次いで内藤信正が継ぎます。二代で終わりです。
置かれた理由ははっきりしています。大坂の豊臣家への抑えです。だから元和元年、大坂の陣で豊臣家が滅びると、この藩の存在意義もなくなりました。信正は摂津高槻へ移され、長浜藩は廃藩となります。
長浜城も同時に廃城となり、その資材の大半は彦根城の築城に転用されました。豊臣秀吉が最初に城持ちとなった城が、解体されて井伊家の城になっています。
幕末の長浜は「彦根藩領」
では幕末の長浜はどうだったか。彦根藩の領地です。
長浜港は松原・米原とともに「彦根藩の三湊」に数えられ、湖北の年貢米を積み出す港として機能していました。北国街道の宿場町であり、大通寺の門前町であり、そして彦根藩の縮緬機業の中心地でもありました。
つまり幕末の長浜で起きたことを知りたいなら、井伊直弼の彦根藩のページを読むのが正しい。桜田門外の変で藩主を失ったあと、彦根藩がどう動いたか——長浜はその領内です。
なお江戸期の長浜周辺には幕府領や旗本領も混在していた可能性があり、「長浜町の全域が一貫して彦根藩領だった」と断定できる資料は確認できていません。
「長浜県」なら、明治にある
ややこしいことに、幕末のすぐあとに「長浜県」は実在します。
明治四年(1871年)十一月、廃藩置県後の統合で彦根・山上・宮川・朝日山の各県をまとめて長浜県が置かれました。ただし翌明治五年には犬上県と改称され、まもなく滋賀県に併合されています。
藩としての長浜は江戸のはじめに十年、県としての長浜は明治のはじめに一年足らず。この地名が行政単位だった時期は、あわせても十年ちょっとしかありません。
それでも長浜が幕末史に触れるところ
藩がなくても、土地には歴史があります。彦根藩領の湖北は、井伊直弼が大老として安政の大獄を進め、桜田門外で斃れたときも、その年貢と縮緬で藩財政を支えていました。
幕末の長浜を語るということは、彦根藩の懐を語るということです。

