形原藩の歩み
「松平家信」は徳川家康に仕えて度々功を挙げたことから、三河形原に五千石を与えられました。元和四年(1618年)九月に安房国内において五千石を加増されて一万石の大名となり、形原藩を立藩しました。しかし藩政においては家信はほとんど何もせず、嫡男「松平康信」が執行していたと言われています。
元和五年(1619年)九月、家信は摂津高槻藩二万石に加増転封されたことから、形原藩は廃藩となりました。形原の十三か村(五千石)はいったん幕府に取り上げられたのち、「松平清直」に与えられました(嫡男の康信が五千石を知行したのは、移った先の高槻二万石の中でのことです)。
廃藩のあと—形原松平家は、二度と形原へ帰らなかった
形原藩は元和四年(1618年)に立って翌年には廃藩となった、わずか一年の藩でした。松平家信が摂津高槻へ加増転封されたためです。
ここで少し不思議なことが起きます。「形原松平家」という名前は全国区で、幕末には丹波亀山藩主家として存続しています。ところがこの一族は、元和五年以降ついに発祥の地である形原へ戻ってきませんでした。名前だけが各地を旅していったことになります。
その後の形原は領主が細かく替わり、享保十七年(1732年)に旗本・巨勢至信が五千石で陣屋を構えました。古代豪族・巨勢氏の末裔を称する家です。幕末の当主は巨勢大隅守利光で、先手鉄砲頭や小姓組番頭を務め、嘉永四年(1851年)に駿河加番を命じられたとされ、その職のまま維新を迎えました。知行の内訳は形原八百五十九石、西浦六百七十九石、戸金三十石です。
正直に書きますが、幕末の形原で大きな事件が起きたという記録は見つけられませんでした。旗本の小さな知行所として静かに過ぎたようです。
ただし記録のほうは残っています。形原陣屋の「形原役所記録」全九冊と、文久三年(1863年)の日記が蒲郡市博物館に所蔵されています。大事件のなかった土地の幕末を、一次史料で読める珍しい例です。
形原城址は蒲郡市の史跡で、三方を海に囲まれた要害でした。本丸跡には稲荷大社が建ち、曲輪の痕跡やお妙塚が残ります。東古城・北古城・南古城という地名が、城の広さを伝えています。
十八松平の一つ、形原松平家
形原松平家は、徳川家康の先祖・松平信光の子が三河の形原に分かれて始まった家で、松平一族の分家を指す「十八松平」の一つに数えられます。三河湾に突き出た形原の城を本拠とし、戦国時代には家康の父祖とともに今川・織田のあいだを生き抜きました。家信の代に家康に重く用いられ、形原から摂津高槻、下総佐倉を経て、寛永十七年(1640)に再び摂津高槻へ入ります。慶安二年(1649)に同じ丹波の篠山へ移りますが、寛延年間に丹波亀山(いまの京都府亀岡市)へ移り、ここで明治を迎えました。
幕末の丹波亀山藩
幕末の藩主・松平信義(のぶよし)は、文久二年(1862)に老中となり、生麦事件の後始末や将軍家茂の上洛の準備など、幕府が大きく揺れた時期の政務にあたりました。京都に近い丹波の譜代の家として、幕府の京都での立て直しを支える立場にありました。
明治二年(1869)、伊勢にも同じ「亀山藩」があってまぎらわしいことから、藩名と地名を「亀岡」と改めています。いまの亀岡市の名は、このとき生まれました。
亀山城のその後
藩主家が明治まで守った亀山城は、もとは明智光秀が丹波攻めの拠点として築いた城です。廃藩後に建物は取り払われ、大正時代には宗教団体の大本が城跡を買い取りました。昭和の大本弾圧事件の際には、城跡に建てられた施設が当局によって壊されています。いまも城跡は大本の所有地で、石垣の一部を見学することができます。
同じころの京都—二条城の会見
家康と秀頼 形原藩の松平家がまだ形原にいた慶長十六年(1611)、徳川家康は京都の二条城で豊臣秀頼と会見しました。十九歳の秀頼は、加藤清正らに付き添われて大坂から上ってきました。家康はこのとき、秀頼が立派な若者に成長していることを見て、豊臣家を滅ぼす決意を固めたともいわれます。
豊臣家の最期へ この会見のあと、清正らの豊臣恩顧の大名が相次いで亡くなり、三年後の方広寺鐘銘事件から大坂の陣へと事態は進んでいきます。形原の松平家のような三河以来の一族は、こうした徳川の天下の完成の過程を見届けていました。
徳川水軍の一翼—形原松平家と三河湾
兵船を出し、浅草で船を造る
形原藩主・松平家信は、文禄元年(1592年)の朝鮮出兵で船手(水軍)を担当し、兵船を出したり、江戸の浅草で船を造ったりしました。関ヶ原のときは、西軍の九鬼嘉隆を見張るため知多半島の師崎に送られています。形原松平家は、三河湾に面した形原(いまの蒲郡市)を本拠に、徳川水軍の一翼を担った家でした。家格は譜代です。
稲生の浜の悲劇
形原城(別名・稲生城、海岩城)は、蒲郡市の史跡です。桶狭間の戦いのあと、城主の松平家広が家康の側についたため、今川氏真が人質だった家広の妻子を稲生の浜で処刑したと伝わります。家広の娘は、のちに家康のもとを離れて秀吉に仕えた石川数正に嫁ぎました。
二つの光忠寺
形原松平家の菩提寺・光忠寺は、蒲郡市西浦町にあり、初代から五代までの墓があります(名鉄西浦駅から徒歩約五分)。寺の名は初代・与副の戒名から取られました。家信より後の墓は、京都府亀岡市の光忠寺にあります。家が摂津高槻、丹波篠山、亀山(亀岡)と移るにつれ、同じ名の寺も移っていったのです。三河と丹波に同じ名の菩提寺がある家は、珍しいと思います。
高槻、篠山、亀山へ
家信は元和五年(1619年)、伏見城で摂津高槻への加増移封を言い渡されました。子の康信は篠山で四年がかりの検地をし、家は丹波亀山藩として幕末を迎えます。最後の藩主・松平信正は、戊辰戦争で山陰道鎮撫総督・西園寺公望の側につき、明治には子爵、貴族院議員となりました。三河湾の水軍の家が、丹波の山あいの城下町の殿様になる。形原松平家の歩みは、海から山への旅でした。



