高井野藩/福島家4万5千石:福島正利 福島正則の末子正利が死去し無嗣断絶となった福島家

【藩名】
高井野藩

【説明】
元和5年(1619年)、「福島正則」は広島城の無断修築を「武家諸法度」違反として罰せられ、信濃国高井郡2万石と越後国魚沼郡2万5千石の合わせて4万5千石へと減封の上移封となりました。このとき正則は家督を嫡男の「福島忠勝」に譲っているが、ほどなくして忠勝が死去してしまい、正則は魚沼郡2万5千石を幕府へ返上しています。

寛永元年(1624年)、正則は64歳で死去するが、このとき、正則の遺体を幕府の検使である「堀田正吉(正利)」が到着する前に火葬してしまったことから、さらに2万石も没収されてしまいました。その後、幕府は正則の功績を考慮して正則の末子である「福島正利」に3112石の所領を与えて旗本としました。

しかし寛永14年(1637年)、正利は嗣子無くして死去し、これにより福島家は一度はお家断絶してしまいます。天和元年(1681年)になると正利の甥「福島正長」の長男「福島正勝」が2000石の旗本として取り立てられて福島氏は再興されました。

目次

高井野藩とはどんな藩だったか

元和五年(1619年)、広島城を無断で修築したことが武家諸法度違反とされ、福島正則は信濃国高井郡二万石と越後国魚沼郡二万五千石へ移されました。翌年に嫡男の忠勝が世を去ると越後分は幕府へ返上され、藩は信濃の二万石だけになります。

寛永元年(1624年)に正則が没したとき、家臣団は幕府の検使が到着する前に遺体を荼毘に付しました。これが再び法度違反とされ、残る二万石も没収されます。末子の福島正利に三千百十二石が与えられて旗本として家は残りましたが、寛永十四年(1637年)に正利が跡継ぎなく没し、福島家はいったん絶えました。

福島正則屋敷跡と、三つの供養の場

陣屋の跡は長野県上高井郡高山村大字高井堀之内にあり、「福島正則屋敷跡」として昭和四十一年三月に長野県の史跡に指定されています。百三メートル四方ほどの方形の平城でしたが、現在は東北の隅に高さ二メートル、長さ十九メートルほどの土塁が残るのみで、屋敷の中央には高井寺が建っています。高山村教育委員会の説明板が立ち、高井寺には安政二年(1855年)に建てられた正則の供養塔があります。

正則をめぐる場所は三つに分かれるので、少し整理が要ります。遺体を荼毘に付した荼毘所の跡は高山村の指定文化財です。霊廟そのものは隣の小布施町にある岩松院に設けられ、高さ二・五メートルの五輪塔が小布施町の指定文化財となっています。堀之内にあるのは屋敷跡と供養塔で、霊廟ではありません。

幕末の高井郡は天領だった

高山村域の支配は目まぐるしく変わりました。高井野藩のあと幕府領となり、寛文元年(1661年)に甲府藩領、元禄十六年(1703年)にふたたび幕府領、宝暦十一年(1761年)からは石見浜田藩の飛び地、文政六年(1823年)に松代藩の預り地、そして天保八年(1837年)にまた幕府領となって幕末を迎えます。須坂藩領でも松代藩(川中島藩)領でも飯山藩領でもなく、天領でした。上高井郡の幕府領は中野代官所が管轄しています。

隣の須坂藩と、江戸城で自刃した藩主

すぐ隣の須坂藩は堀家一万石の外様小藩ですが、幕末に大きな出来事がありました。十三代藩主の堀直虎は文久元年(1861年)に二十六歳で藩主となり、西洋兵学と砲術を学んで藩政改革を進めた人です。慶応三年十二月五日に若年寄兼外国総奉行となりますが、慶応四年一月十七日、江戸城中で自刃しました。三十三歳です。理由については恭順を説いたとも抗戦を説いたともいわれ、定説がありません。須坂藩はその後、小山や結城、北越、会津へ出兵し、信濃の諸藩のなかでも多くの兵を新政府方に送っています。

小布施の高井鴻山と、下諏訪の魁塚

高山村の隣の小布施には、幕末を代表する豪商がいました。高井鴻山です。江戸で佐藤一斎に朱子学を学び、佐久間象山や大塩平八郎と交わり、攘夷論や公武合体論を説きました。天保十三年(1842年)の秋には八十三歳の葛飾北斎を小布施に招き、碧漪軒というアトリエを建てて厚遇しています。北斎が岩松院の天井に八方睨みの鳳凰図を描き上げたのは嘉永元年(1848年)でした。いまは高井鴻山記念館と北斎館が、その足跡を伝えています。

信濃の幕末でもう一つ忘れられないのが、慶応四年三月三日の下諏訪です。年貢半減を掲げて東山道を進んだ赤報隊の相楽総三ら幹部八人が、偽官軍として斬られました。明治三年に建てられた魁塚(相楽塚)が、いまもその場所に残ります。

【場所・アクセス・地図】

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