【藩名】
奥仁科藩(松本藩支藩)
【説明】
「石川数正」の死後、家督は長男「石川康長」が継いだが、康長は所領のうち1万5千石を弟の「石川康勝」に、5千石を「石川康次」にそれぞれ分与しました。康勝はこの分与により奥仁科藩を立藩しました。
慶長5年(1600年)の「関ヶ原の戦い」では、兄と共に家康に協力したため、康勝は所領を安堵されました。しかし慶長18年(1613年)の「大久保長安事件」に連座して兄「石川康長」が改易されると、康勝も同じく改易されました。その後、康勝は浪人となり、慶長19年(1614年)の「大坂の陣」では「豊臣秀頼」に与して「真田幸村」と共に奮戦したが「大阪夏の陣」において戦死しました。

本家・松本藩との関係
奥仁科藩は、信濃の松本藩にかかわる石川家一万五千石の藩でした。
ただし、この藩は幕末まで続いた藩ではありません。江戸時代のごく初期、大久保長安事件に石川家が連座したことで、松本藩とともに改易となり廃藩しました。幕末の松本藩の動きは本家のページをご覧ください。
「奥仁科」がどこなのか、実ははっきりしません
安曇郡は仁科とも呼ばれ、仁科中筋・仁科西山筋・中仁科・奥仁科と細かく分けられていました。ただし奥仁科がどの範囲を指すのかを示した公的な資料は、今回は見つかりませんでした。大町市や長野県が公開している資料にも定義は見あたりません。陣屋の跡や石碑の伝承地も確認できていません。
幕末、仁科地方は松本藩の領地でした
旧高旧領取調帳をもとにしたデータで見ると、大町村から白馬、小谷まで安曇郡の北部はほぼ一円が松本藩の領地です。大町村が千八百三十九石余、千国村が三百三十九石余といった具合で、松本藩は安曇郡だけで百七十か村を持っていました。この一帯を糸魚川へ抜ける千国街道は塩の道と呼ばれ、松本藩は千国に番所を置いて通る荷に税をかけています。
松本藩の幕末
幕末の藩主は松平光則、のちの戸田光則です。元治元年十一月、諏訪藩とともに中山道の和田峠で天狗党と戦って敗れました。慶応四年一月二十七日には松平姓を返上して戸田に復しています。藩内は佐幕か勤王かで割れましたが、東征軍が松本に着く直前に勤王を選び、三万両を献じて帰順しました。以後は新政府軍として宇都宮城の戦い、北越戦争、会津戦争に加わっています。城の様子は【現地取材】黒漆の国宝天守・松本城を歩くに書きました。なお石川数正の家は康長・康勝・康次の三兄弟がそろって改易となり、その後どうなったかは確かめられませんでした。
【場所・アクセス・地図】
※信濃の豪族仁科氏の城跡付近(仁科城・森城)に陣屋か館があったのではないかと推測します。

