西谷藩/水野家1万石:水野勝長 福山藩の断絶を受け家名を継ぐため能登に立てられた西谷藩

西谷藩 水野家1万石 最後の藩主 水野勝長
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西谷藩の歩み

元禄十一年(1698年)、備後福山藩主「水野勝岑」が2歳で早世しました。当然幼児に嗣子はおらず福山藩は無嗣断絶により改易となりました。しかし、水野氏は譜代の名門であるという経緯から一族の「水野勝長」が能登国内に一万石を与えられて西谷藩を立藩しました。

元禄十三年(1700年)、勝長は下総結城藩に移封となり西谷藩はわずか2年で廃藩され、その所領は幕府領(天領)となりました。

二年で終わった、能登の藩です

西谷藩があったのは能登国—現在の石川県七尾市です。元禄十一年(1698年)に成立し、元禄十三年(1700年)十月に廃藩となりました。わずか二年です。

なぜ、こんな短い藩ができたのか

事情があります。備後福山藩の水野勝岑が二歳で世を去り、跡継ぎがいないまま改易となりました。

ただし水野家は徳川譜代の名門で、しかもこの家はその宗家にあたります。家を絶やすのは忍びない—そこで一族の水野勝長に能登国内で一万石が与えられ、西谷藩が立てられました。家名を残すための藩だったわけです。

元禄十三年、勝長は下総の結城藩へ移されます。西谷の所領はその後、幕府領となりました。

なお結城藩に移った水野家は、幕末まで続いています。

陣屋を建てなかったらしい藩

西谷藩の居所とされたのは、江戸時代の能登国羽咋郡西谷内、いまの七尾市中島町西谷内です(近代には鹿島郡中島町に属した地域です)。七尾市に「西谷町」という町名はなく、旧西谷村にあたるのがこの中島町西谷内です。ここに陣屋が置かれたかどうかは、はっきりしていません。能登の幕府領には鹿島郡下村に代官の出張陣屋が置かれていたので、それを借りたのではないかという郷土史家の推測があります。二年で終わる藩に、わざわざ普請をする理由もなかったのでしょう。

家名を継ぐために立てられた

藩主となった水野勝長は、福山藩祖 水野勝成の六男 勝忠の孫です。父は千五百石の旗本 水野勝直で、勝長自身は江戸生まれの旗本の子でした。二歳で亡くなった勝岑の養子という形で名跡を継ぎ、能登国内の一万石を与えられています。家を絶やさないための手続きが、そのまま一つの藩になったわけです。

幕末の西谷内は「加賀藩に預けられた天領」

能登のこの一帯は、貞享元年(1684年)に土方家の所領が幕府に没収されて直轄領となり、鹿島郡下村に代官の出張陣屋が置かれました。元禄期に一時だけ鳥居領、次いで水野領となり、元禄十三年(1700年)にまた天領へ戻ります。さらに享保七年(1722年)以降、幕府は能登の天領六十一か村を加賀藩に管理させる「御預地」としました。つまり幕末の西谷内は、名目上は幕府領、実際に年貢を扱ったのは加賀藩、という二重の姿だったことになります。

移った先の結城で、水野家は二つに割れた

勝長は元禄十三年十月二十八日に下総結城と上総へ移り、のちに一万八千石で結城城主格の大名となりました。この家が幕末に大きく揺れます。藩主 水野勝知は彰義隊を率いる佐幕派で、慶応四年(1868年)三月二十六日に恭順派から結城城を奪い返し、四月に新政府軍の攻撃で城を落とされました。結城戦争と呼ばれる戦いです。勝知は官位を剥奪され千石を減らされ、十二月に隠居を命じられました。亡くなったのは大正八年、八十二歳のときです。

最後の藩主は、恭順派が立てた水野勝寛でした。明治二年に結城藩知事となりましたが、明治六年に十八歳で亡くなっています。華族令(明治十七年七月七日)で子爵になったのは、紀伊新宮の水野家から入った水野忠愛で、最後の藩主ではありません。西谷内には中世の西谷内城跡が残りますが、埋蔵文化財の標柱が立つだけで、指定文化財ではありません。

柳沢吉保の屋敷に住んだ藩主—西谷藩の水野勝長

曽祖父は「鬼日向」水野勝成

西谷藩主・水野勝長は、福山藩を開いた水野勝成のひ孫にあたります。勝成は「鬼日向」と呼ばれた猛将で、若いころ父に勘当され、佐々成政・黒田孝高・加藤清正らのもとを渡り歩きました。寛永十五年(1638年)には七十五歳で島原の乱に出陣し、九州の外から参陣した大名はこの水野家だけでした。家格は譜代です。

綱吉の小姓として、柳沢邸に住む

勝長は元禄十二年(1699年)に五代将軍綱吉の小姓となりました。翌年十一月には綱吉の命で、側用人・柳沢吉保の神田橋の屋敷の中に住むことになります。同じ小姓の黒田直邦らも同じ命を受けていました。元禄十四年(1701年)に綱吉が柳沢邸を訪れたときには、邸内の勝長の住まいにも立ち寄ったとされます。勝長が能登の領地へ行った記録はありません。

能登の幕府領は、もとは陸奥の大名の飛び地だった

西谷藩の領地は、能登の幕府領約一万三千石から割かれたものです。この幕府領は、もとは陸奥窪田藩の土方家の飛び地で、貞享元年(1684年)に窪田藩が改易されて幕府のものになっていました。領地は鹿島・鳳至・羽咋・珠洲の四郡、四十六か村に散らばっていたといいます。勝長の正室は、下野鹿沼藩主・内田正衆の娘でした。正衆は、家光に殉じた内田正信の跡継ぎです(鹿沼藩)。

殿様が一度も来なかった能登

勝長にとって大事なのは、能登の村々よりも、綱吉のそばに仕えることでした。柳沢吉保の屋敷の中で暮らす藩主と、四郡に散らばった四十六の村。西谷藩は、領地と殿様が最初から最後まで出会わなかった藩だったといえます。それでも水野家の名跡はこの二年の藩によってつながり、結城で幕末まで続きました。

西谷藩をもっと詳しく

2歳の藩主が江戸へ向かう途中で

西谷藩が生まれるきっかけとなった水野勝岑は、元禄10年(1697年)、福山藩4代藩主・水野勝種の七男として福山で生まれました。6人の兄はみな幼くして亡くなっていました。同じ年の8月23日に父の勝種が37歳で亡くなり、10月22日、1歳の勝岑に家督と遺領の相続が認められます。

翌元禄11年(1698年)4月28日、勝岑は参勤のため福山を発ちましたが、途中で病にかかり、5月5日に亡くなりました(5月1日とする記録もあります)。遺骸は江戸・三田の常林寺に葬られています。福山10万石は跡継ぎのないまま取り上げられることになり、同じ月の晦日、一族の水野勝長が「先祖の旧勲」を理由に名跡を継ぐことを許されて、能登で1万石を与えられました。勝岑の死から1か月たたないうちの決定でした。

鬼日向が開いた福山10万石

水野家が福山に入ったのは元和5年(1619年)です。広島の福島正則が改易されたあと、大和郡山6万石の水野勝成が4万石を加えられて備後南部に移り、10万石の大名となりました。勝成は着任するとすぐに福山城と城下町の建設に取りかかり、元和8年(1622年)に城を完成させています。寛永3年(1626年)には相模に1,000石の飛び地が加わりました。水野家5代のおよそ80年のあいだに新田開発が進み、表向き10万石の領地は、実際には15万石ほどあったともいわれます。

城に立てこもろうとした家臣たちと、元禄検地

改易が決まると、家臣や領民の一部は水野家を残そうと福山城に立てこもる動きを見せましたが、重臣たちの説得でおさまりました。領地はいったん幕府領となり、城の番は丸亀藩の京極家が務めています。

幕府はこのとき、福山領の検地をやり直させました。担当したのは岡山藩で、2,400人ほどが送り込まれています。基準が厳しくなったこともあり、それまで13万2,800石ほどだった領地は約15万石と見積もられ、年貢は平均で1割ほど重くなったといわれます。元禄13年(1700年)に松平忠雅が10万石で入りますが、検地で増えた分のうち約5万石は幕府領として切り離されました。宝永7年(1710年)からは阿部家が入り、幕末まで治めています(備後福山藩)。

25歳で亡くなった勝長

勝長は延宝7年(1679年)6月4日、江戸で旗本・水野勝直の長男として生まれました。西谷藩主となったのは20歳のときです。元禄13年に下総結城へ移ったあと、元禄14年(1701年)に3,000石、元禄16年(1703年)に5,000石を加えられ、結城に城を築くよう命じられて城主の格を得ました。ところがその年の3月ごろに病に倒れ、いったんは持ち直したものの、12月22日に江戸・神田橋の屋敷で亡くなりました。25歳でした。子はなく、弟の勝政が養子となって跡を継いでいます(結城藩)。家を残すために西谷藩が立てられてから、わずか5年あまりのことでした。

1万石の大名が出す兵の数

慶安2年(1649年)の軍役規定とされるものでは、1万石あたり235人の兵を出すことになっていました。これを西谷藩の1万石にあてはめると、十人単位でおよそ240人です。ただし、この規定は案の段階のもので、実際には発布されなかったとする説もあります。藩主は江戸で将軍の小姓を務め、能登の領地に陣屋を建てた記録もない西谷藩にとって、この数字は格式の上での目安と考えるのがよいでしょう。

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