結城藩/水野家1万8千石:水野勝知 幕末時は佐幕派と勤皇派に分裂した混乱を極めた結城藩

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結城藩の歩み

慶応四年(1868年)三月一日、旧幕府から「彰義隊」の指揮を任されます。当時、藩内は佐幕派と恭順派に分裂しており、藩主の勝知は佐幕派に与し、恭順派は第8代藩主勝進の子の勝寛を新藩主として擁立しました。

三月二十六日、彰義隊の一部などを引き連れた勝知は、恭順派から結城城を奪い取りました。しかし、同年四月、新政府軍の攻撃を受けて結城城は落城し、勝知は水路から脱出して上総成東や上野山内に潜伏したのち、実家の二本松藩にまで逃れました。閏四月五日、明治政府は勝知の官位を剥奪し、藩士の入京も禁止としました。

結城藩/場所・アクセス・地図 水野家1万8千石:水野勝知 幕末時は佐幕派と勤皇派に分裂した混乱を極めた結城藩【幕末維新写真館】

勝知は五月二十日、新政府軍に捕らえられて、伊勢津藩にお預けになりました。明治元年(1868年)九月十日、上総鶴牧藩にお預けとなります。十二月七日、明治政府から隠居を命じられ、所領も千石減封されました。明治二年(1869年)二月二十四日、結城藩を「勝寛」が相続し、勝知は再び二本松藩にお預けとなります。

下総結城の水野家

結城藩は、下総国(現在の茨城県結城市)に置かれた一万八千石の藩で、結城城を居城とし、藩主は譜代の水野家でした。結城紬(つむぎ)で知られる城下町を擁し、関東の一角を治めた藩です。

藩を二分した混乱

幕末の結城藩は、旧幕府を支持する佐幕派と、新政府を奉じる勤皇派とに真っ二つに分かれ、激しい混乱に見舞われました。藩主が旧幕府方の勢力とともに結城城に立てこもるなど、藩内で刃を交える事態にまで発展します。譜代の小藩が、幕末の思想対立にまともに引き裂かれた、痛ましい一例を伝えています。

彰義隊を率いて自分の城を取り返した藩主

結城藩の幕末は、藩主自身が旧幕府方の兵を率いて自分の城を攻めるという、ほかにあまり例のない展開をたどりました。主役は水野勝知です。天保九年(1838年)に生まれ、文久二年(1862年)に家督を継ぎました。

江戸で幕府に残った当主

慶応四年(1868年)、新政府軍が江戸に迫ると、結城藩でも国元の家臣たちは新政府に従う方針を固めます。ところが江戸にいた勝知は幕府方に留まりました。譜代の家として徳川家に従うという筋を通したとも、上野に集まった彰義隊の動きに引き込まれたとも言われますが、いずれにせよ藩主と国元の判断が真っ二つに割れたのです。

そして三月末、勝知は彰義隊の一部を率いて結城へ向かい、城を奪い取りました。自分の居城を、自分が攻めるという奇妙な戦いでした。しかし新政府軍が近隣の藩とともに反撃に出ると、ひと月ほどで城は落ち、勝知は江戸へ逃れます。

隠居と減封という決着

この行動の責任は、同じ年の十二月に問われました。勝知は隠居させられ、結城藩は千石を削られます。一万八千石の藩にとって決して軽い処分ではありませんが、それでも家名は残されました。国元の家臣が早い段階から新政府に従っていたことが、藩の存続を支えたと考えられます。

あとを継いだのは水野勝寛です。明治二年(1869年)に家督を継ぎ、版籍奉還で藩知事となりましたが、明治六年(1873年)に十八歳で亡くなりました。明治十七年(1884年)の華族令で子爵を授けられたのは、紀伊新宮の水野家から入った水野忠愛でした。分家の当主が本家の爵位を継ぐという形で、水野家の名は明治に引き継がれています。

秉彝館と城跡

結城藩の藩校は秉彝館です。創設の時期については天保年間とする説と文政ごろとする説があり、資料によって幅があります。名は「秉彝」、つまり人が生まれながらに持つ道すじを守るという意味の言葉から取られています。

結城城跡は昭和三十九年(1964年)に結城市の史跡に指定されました。現在は城跡公園として整備され、土塁と堀の跡が残っています。廃藩後は結城県となり、印旛県、千葉県を経て、明治八年(1875年)に茨城県へ編入されました。今の県境からすると意外に思えますが、明治初年の結城は一時、千葉県の側に属していたのです。

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水野家より前の結城

結城の地は鎌倉時代から、「関東八屋形」の一つに数えられた名門・結城氏の本拠でした。ここが近世大名の領地になったのは、徳川家康の次男・秀康が結城晴朝の養子に入り、結城城を受け継いでからです(天正十八年(1590年)とも十九年(1591年)ともされます)。秀康の領地ははじめ五万石、のちに十万一千石となりましたが、関ヶ原の戦いのあと越前へ移され、結城城は壊されました。この時代を前期の「松平結城藩」と呼ぶこともありますが、江戸幕府ができる前のことなので藩とみなさない見方もあります。

その後のおよそ百年、結城には大名が置かれず、幕府領や旗本領、大名の飛び地となりました。結城の一帯が全国でも指折りの養蚕地だったため、幕府がその利益をおさえようとしたからだという説があります。

本家・福山藩の断絶と水野家の再興

結城藩の水野家は、備後福山藩十万石を開いた水野勝成の家の流れです。勝成は家康の従弟にあたり、刈谷藩主、大和郡山藩主を経て福山藩の初代藩主となった武将で、その破天荒な生き方から「倫魁不羈(りんかいふき)」と評されました。ところが元禄十一年(1698年)、福山藩五代藩主の勝岑がわずか二歳で亡くなり、跡継ぎのない福山藩水野家は改易となります。

幕府は藩祖・勝成の功績を考え、勝成の曽孫にあたる水野勝長に能登国内で一万石を与えて家名を残させました。勝長は元禄十三年(1700年)に能登の西谷から結城へ移り、元禄十四年(1701年)に三千石、翌十五年(1702年)に五千石を加えられて一万八千石となり、結城の古城跡に新しく城を築くことも許されました。以後、水野家は江戸城の帝鑑間に詰める譜代大名として、十一代にわたって明治維新まで結城を治めます。城跡の東側には、藩祖・勝成を祀る聡敏社があります。

領地と結城紬

藩庁は下総国結城郡の結城(今の茨城県結城市)に置かれました。結城の一帯は江戸に向けた商品作りが盛んな土地で、なかでも絹織物の結城紬は江戸時代中ごろには高く評価されていました。結城の養蚕の技術は、元禄年間には他の幕府領にも広まっていったとされます。

幕末の対立の構図

本文では国元の家臣と江戸の藩主の対立として描いていますが、辞典類では、藩主の勝知と隠居していた前藩主・勝進が佐幕と勤王に分かれ、結城城を奪い合ったと説明するものもあります。戊辰戦争の後、勝知は隠居させられて千石を削られ、勝寛への相続は認められました。

この石高で動員できた兵の目安

江戸幕府の慶安二年(1649年)の軍役規定(案)とされるものでは、一万石あたり二百三十五人(騎馬十・鉄砲二十・弓十・槍三十・旗三)とされます。これを単純に当てはめると、一万八千石のこの藩はおよそ四百二十人が目安です。ただしこの規定は案のまま正式には出されなかったともいわれ、実際に動員した人数とは異なります。

参考:Wikipedia「結城藩」「水野勝成」「水野勝岑」、コトバンク「結城藩」(日本大百科全書、藩名・旧国名がわかる事典、ブリタニカ国際大百科事典)

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