能登下村藩の歩み
元禄二年(1689年)六月、信濃国高遠藩主「鳥居忠則」の家臣「高坂権兵衛」は江戸城の馬場先門の守衛を務めていた際に、他の幕臣との間で不手際を犯し捕縛されました。藩士の監督不届きを理由に主家である鳥居家は改易となります。
しかし、鳥居家は「鳥居元忠」以来の三河の名族であるという理由で、特別の計らいとして「鳥居忠英」に能登国内の内、鹿島・珠洲・鳳至・羽咋四郡一万石を与えて能登下村藩を立藩させました。元禄八年(1695年)五月、忠英が近江水口藩に一万石加増の上で転封されたため、能登下村藩はわずか6年で廃藩となり、その所領は天領となりました。
廃藩のあと—「天下百姓」と呼ばれた村々
能登下村藩は元禄二年(1689年)から元禄八年(1695年)まで、わずか六年の藩でした。廃藩といっても左遷ではなく、鳥居忠英が近江水口藩へ加増転封されたためです。忠英はその後、下野壬生藩主となりました。なお藩庁の場所は七尾市下町とする説と田鶴浜町の新村とする説があり、決着していません。
この一帯は領主がめまぐるしく変わった土地です。前田利長と土方雄久の領地交換で生まれた能登土方領が七十九年、そのあと鳥居家が六年、水野家の西谷藩が三年、そして元禄十三年(1700年)に幕府領となりました。
ここからが面白いところです。享保七年(1722年)、幕府は能登の天領六十一か村、一万三千五百石余の支配を加賀藩に管理委託しました。形のうえでは幕府領、実務は加賀藩という二重構造です。これが幕末まで続きました。
そして七尾市の記録によれば、これらの村の人々は「天下百姓」という意識を保ち続けました。加賀藩の支配下にありながら、自分たちは幕府から預けられた将軍家の百姓なのだ、という矜持です。加賀百万石のただ中に、幕末まで「幕府の百姓」を名乗る村が六十一か村あったことになります。
その能登の海には、幕末に別のものも置かれました。文久二年(1862年)に設けられた七尾軍艦所です。加賀藩がヨーロッパから買った艦船を七尾湾に配置し、その倉庫とドックとして建てられました。船には白地に紺の剣梅鉢—前田家の家紋の船印が掲げられ、「梅鉢海軍」と呼ばれています。明治四年まで置かれました。
七尾市矢田新町の海岸に、七尾軍艦所跡の石碑が立っています。下村藩の陣屋跡については、自治体の公式な記載は見つかっていません。
伏見城の鳥居元忠から続く家
能登下村藩の鳥居家は、徳川家康の少年時代からの家臣・鳥居元忠の子孫です。慶長五年(1600)、元忠は家康が会津攻めに向かったあとの伏見城を預かり、石田三成らの大軍に囲まれて城とともに討ち死にしました。家康のために命を捨てて時間をかせいだ「三河武士の鑑」とされ、その功で子の忠政は出羽山形二十二万石の大大名に取り立てられています。
ところが忠政の子・忠恒が寛永十三年(1636)に跡継ぎを届けないまま亡くなり、鳥居家は一度改易されかけます。元忠の功に免じて弟の忠春が信濃高遠三万石で家を継ぐことを許されましたが、今度はその子・忠則の代に、家臣が江戸城の門の警備で不始末を起こしたことを咎められ、元禄二年(1689)に再び改易となりました。能登下村の一万石は、二度目の危機のあとに、やはり元忠の功に免じて与えられたものです。
能登を出た鳥居家の幕末—下野壬生藩
能登から近江水口へ移った鳥居忠英は、のちに若年寄として幕府に重く用いられ、正徳二年(1712)に下野の壬生三万石へ移ります。ここから明治まで、鳥居家は壬生藩主として続きました。
幕末の慶応四年(1868)、壬生藩は新政府側につき、壬生城は旧幕府軍に奪われた宇都宮城を取り戻すための新政府軍の拠点となりました。四月の安塚の戦いでは、壬生城の近くで旧幕府軍と新政府軍が激しく戦っています。伏見城で徳川のために散った元忠の子孫は、二百七十年後、徳川の旧臣たちと戦う側に立つことになりました。
舌を噛んだ家臣と、干瓢の種—鳥居家の能登下村藩
真相のわからない事件
能登下村藩は、鳥居家が改易されたあと、家名を残すために置かれた藩です。発端は家臣の高坂権兵衛が、旗本の屋敷の長屋をのぞいた罪で捕まった事件でした。高坂は取り調べ中に舌を噛み切って自殺したため、真相はわかっていません。能登の幕府領に、改易された譜代大名の家名を残すために藩を置いた例は、西谷藩(水野家)と同じです。領地は四十九か村でした。
島津家の娘を妻に、若年寄へ
藩主・鳥居忠英の正室は、薩摩藩主・島津光久の嫡男・綱久の娘です。忠英は宝永二年(1705年)に奏者番と寺社奉行を兼ね、正徳元年(1711年)には若年寄になりました。下村藩から近江水口、さらに下野壬生へと移り、壬生藩主として幕末まで続きます。家格は譜代です。陣屋の場所は田鶴浜とする説と、七尾市下町とする説があります。
干瓢の種の交換
正徳二年(1712年)、忠英は水口から壬生へ移るとき、旧領の水口から干瓢の種を取り寄せ、これが栃木の干瓢作りの始まりになったとされます。この縁で壬生町と水口(甲賀市)は姉妹都市になっています。壬生の藩校は下野で最初の藩校とされ、鳥居家の墓所(常楽寺)は町の史跡です。最後の藩知事・鳥居忠文は岩倉使節団に加わりました。
事件の家から、干瓢の家へ
家臣の不祥事で改易され、能登で家名だけをつないだ家が、のちに栃木の名産を生む。今日、栃木の干瓢を口にするとき、その始まりに能登下村藩という小さな藩があったことを思い出してみてください。



