坂戸藩/堀家5万石:堀直寄 信濃国飯山藩4万石に減移封され廃藩

【藩名】
坂戸藩

【説明】
慶長3年(1598年)、「堀秀治」が「上杉景勝」に代わって越後に入部したとき、堀直寄(堀直政の子)が坂戸城へ2万石にて入封しました。直寄は慶長11年(1606年)の「堀鶴千代」の死去により蔵王堂藩3万石を加えられ、都合5万石を領すようになりました。

しかし、慶長13年(1608年)に父「堀直政」が死去すると直寄は幼君「堀忠俊」のもとでの主導権をめぐって兄「堀直清」と争うことになります。この政争には勝利はしたが、忠俊は内紛の責任を問われ改易とされ、直寄も坂戸5万石から信濃国飯山藩4万石に減移封されました。ここに坂戸藩は廃藩となりました。

【廃藩のあと——会津藩が九十九年預かった土地】

坂戸城は慶長十五年(1610年)に城主が信濃飯山へ移って廃城となりました。上杉景勝と直江兼続ゆかりの城です。

そのあとの魚沼で驚くのは、宝暦十三年(1763年)から文久元年(1861年)まで、九十九年ものあいだ会津藩の預り領だったことです。小千谷に会津藩の陣屋が置かれ、塩沢と十日町には出張陣屋がありました。文久元年に幕府が組み替えを行い、代官支配の村、預り領の村、会津藩領の村に分かれ、桑名藩の飛地も混じるという入り組んだ状態で幕末を迎えます。坂戸村そのものがどれに当たるかは、確かめられませんでした。

この九十九年が、戊辰戦争の意味を変えます。慶応四年(1868年)、会津藩は二月のうちに魚沼を先に押さえました。他人の土地へ攻め入ったというより、百年治めた土地に戻った感覚だったはずです。

新政府軍は三国街道と松代方面から攻め上がりました。閏四月、上州方面から来た軍が小出島を三方から攻め、会津軍が敗走します。このとき村々が焼かれました。浅貝は五十四戸すべてが焼け、本陣の蔵だけが残りました。新居は四十三戸全焼、小出島でも百六十八戸が焼けています。

坂戸城跡は国の史跡で、土塁・空堀・石垣が残り、保存整備が進められています。三国街道の塩沢宿は「牧之通り」として町並みが整えられました。『北越雪譜』の鈴木牧之が住んだ宿場です。

【場所・アクセス・地図】

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