喜多見藩/喜多見家2万石:喜多見重政 一族の刃傷沙汰に連座して改易の上廃藩

喜多見藩 喜多見家2万 最後の藩主 喜多見重勝
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喜多見藩の歩み

天正十八年(1590年)の「小田原征伐」で北条氏が敗北すると、「江戸勝忠」は「徳川家康」の家臣となり、姓を喜多見に改め、以降は喜多見勝忠と名乗りました。その子孫の「喜多見重政」は五代将軍「徳川綱吉」に仕え、貞享二年(1685年)に側用人となり、翌貞享三年(1686年)には、河内・武蔵国内において一万石を加増されて合計二万石となりました(一万石の大名に列したのは、その前の天和三年=1683年です)。こうして武蔵喜多見(現在の東京都世田谷区喜多見)に「喜多見藩」を立藩しました。

元禄二年(1689年)二月に突然の改易にあい喜多見藩は廃藩となります。

東京二十三区にあった、たったひとつの藩

喜多見藩はいまの東京都世田谷区喜多見にありました。二十三区の中に置かれた藩は、この藩だけです。

喜多見氏は江戸氏の後裔です。喜多見重政が五代将軍・徳川綱吉に気に入られて出世し、貞享三年(1686年)に河内と武蔵で加増されて二万石の大名となりました。将軍のお膝元でありながら築城を許され、建築費まで下賜されるという異例の厚遇です。

ところが元禄二年(1689年)二月、突然の改易。分家の喜多見重治が、義妹の夫にあたる旗本・朝岡直国を殺害する刃傷事件を起こし、それに連座したというのが通説です。柳沢吉保による陰謀だとする説もあります。城を建てて三年ほどで消えたことになります。

その後の喜多見村がどこの領地だったかは、わかっていません。近隣の世田谷領十五か村は寛永十年(1633年)から彦根藩井伊家の領地で、代官は大場家が務めていますが、多摩郡の喜多見村がここに含まれるかどうかは分かりません。

正直に書きますが、幕末の喜多見で何かが起きたという記録は見つかりませんでした。世田谷側では、彦根藩世田谷領の代官・大場弥十郎が四十年間その職を務め、その功で天保元年(1830年)に一代限りの士分として彦根藩士に取り立てられています。

陣屋の遺構は宅地化で消えました。江戸氏の菩提寺である慶元寺に三重塔と江戸太郎重長の銅像があり、江戸氏・喜多見氏の墓所が区の史跡になっています。

「江戸」の名を持っていた一族

喜多見氏の先祖・江戸氏は、平安時代の終わりに武蔵の江戸郷(いまの東京都心部)を本拠とした秩父平氏の一族です。治承四年(1180)、源頼朝が挙兵したとき、江戸太郎重長ははじめ敵対しましたが、のちに頼朝に従い、鎌倉幕府の御家人となりました。「江戸」という地名を名字にした最初の武士の家として知られています。

江戸氏はその後、室町時代に本拠を喜多見の地へ移し、戦国時代には小田原の北条氏に仕えました。北条氏が滅んだあと、江戸勝忠が家康に仕えて「喜多見」と名を改めます。江戸に幕府を開いた徳川家に、江戸の名を持つ旧家が仕えたことになります。喜多見の慶元寺に立つ江戸太郎重長の銅像は、その長い歴史を伝えています。

同じ世田谷に眠る幕末の大老

喜多見のすぐ東、世田谷の村々は江戸時代の初めから近江彦根藩・井伊家の領地でした。その縁で、世田谷の豪徳寺は井伊家の菩提寺となり、境内には安政七年(1860)三月、桜田門外で水戸浪士らに討たれた大老・井伊直弼の墓があります。招き猫発祥の寺としても知られる豪徳寺には、直弼をはじめ歴代の藩主や家族の墓が並び、国の史跡になっています。二十三区でたった一つの藩が消えた土地の隣に、幕末の政治を動かした大老が眠っているのです。

同じころの江戸—大老・堀田正俊の刺殺

江戸城での事件 喜多見藩が改易された少し前の貞享元年(1684)八月、江戸城の中で、大老の堀田正俊が若年寄の稲葉正休に刺し殺されました。正休はその場で老中たちに斬られて死んだため、事件の理由ははっきりしないままです。

綱吉の政治 正俊は将軍綱吉を擁立した功労者で、綱吉の初期の政治を支えた人物でした。正俊の死後、綱吉は側用人の牧野成貞や柳沢吉保らを重く用い、将軍みずからが政治を動かすようになります。喜多見家の改易も、綱吉の時代の厳しい大名・旗本の処分の一つでした。

生類憐みの令の現場責任者—喜多見重政と浪人百姓

綱吉に取り立てられた側用人

喜多見重政は、二千五百石の旗本・石谷武清の子で、喜多見家に養子に入った人です。書院番、御側衆を経て側用人となり、天和三年(1683年)に一万石の大名に、貞享三年(1686年)に二万石になりました。祖父の喜多見勝忠は堺奉行を務め、在任中の十年間は牢に入る訴訟人がいなかったと伝わる名奉行でした。家格は譜代です。

「犬大支配役」と喜多見の犬小屋

貞享三年、重政は「犬大支配役」を命じられ、自分の領地の喜多見に犬小屋を建てたとされます。生類憐みの令の現場責任者だったことになります。重政が改易されたあと、この法令はかえって厳しくなったともいわれます。

刃傷事件と、桑名での最期

元禄二年(1689年)一月、従兄弟の重治の屋敷で刃傷事件が起き、重治は斬首、重政も「将軍の意向にしばしば背いた」として改易されました。生類憐みの令に意見したためという説もあります。重政は桑名藩に預けられ、元禄六年(1693年)に桑名で餓死しました。のちに『葉隠』を語った山本常朝は重政を「忠実至誠」とほめ、松本清張は重政を題材に小説『栄落不測』を書いています。

浪人百姓と慶元寺

改易のあと、家臣たちは浪人となり、喜多見村に土着した家は「浪人百姓」と呼ばれました。喜多見の慶元寺には、喜多見氏の墓を囲むように家臣の家の墓が並んでいます。慶元寺には区の無形民俗文化財「双盤念仏」も伝わります。世田谷の住宅街に、主君の墓を囲んで眠る家臣たちがいる。二万石の藩の最も確かな名残は、この墓の並びなのかもしれません。

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