【藩名】
深谷藩
【説明】
元和8年(1622年)、「酒井忠勝」が1万石で入封し「深谷藩」が立藩されます。忠勝は寛永元年(1624年)8月、上総・武蔵・下総国内に2万石を加増され、老中に列せられます。

その後も2万石を加増され、合計5万石の大名となりました。忠勝は農民を保護し、藩政の確立に努めていたが、寛永4年(1627年)に父で川越藩主「酒井忠利」が死去したため、その後を継ぎ川越藩主となりました。
忠勝の川越藩移封により深谷藩は廃藩となり、寛永11年(1634年)深谷城もに破却されました。
【廃藩のあと——幕末の深谷】
酒井忠勝が川越へ移って深谷藩が消えたのが寛永四年(1627年)、深谷城が廃されたのが寛永十一年(1634年)です。以後この地に大名は置かれませんでした。榛沢郡は幕府領・旗本領・岡部藩領が細かく入り混じり、幕府領は韮山代官の江川太郎左衛門をはじめ複数の代官が分けて支配しています。
藩がなかったからこそ、この土地では豪農が育ちました。その代表が渋沢栄一です。生まれた血洗島村は旗本領から岡部藩領となり、幕末には半原藩領でした。利根川流域の良質な藍の産地で、栄一の最初の商売は藍葉の鑑定です。「武州自慢鑑藍玉力競」という番付表を作って地元の農家を競わせ、本場の阿波藍に対抗させました。
その栄一が文久三年(1863年)、尾高惇忠らと高崎城の乗っ取りと横浜の焼き討ちを計画しています。同年十月、京都から帰った尾高長七郎に説き伏せられて中止しました。栄一は後年、あれで多くの命が救われたと述懐しています。実行していれば、その後の日本の経済史は違うものになっていたはずです。
領主だった岡部藩も動きます。慶応四年(1868年)四月、藩主・安部信発が三河国八名郡半原へ藩庁を移しました。武蔵の所領だけでは藩士に知行を与えきれないという理由です。信発は元治元年の天狗党鎮圧で武功を挙げ、慶応四年三月には上洛して新政府に恭順していました。
深谷城の跡は深谷城址公園になっていますが、石垣や堀は後から造られたものです。確かな遺構は富士浅間神社の周辺に残る外堀跡で、昭和三十三年(1958年)に市の史跡になっています。
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