東方藩/戸田家1万:戸田康長

【藩名】
東方藩

【説明】

武蔵国幡羅郡東方——現在の埼玉県深谷市東方に、わずか十一年だけ存在した一万石の藩です。藩主は一人しかいません。松平康長、ただ一代で終わりました。

目次

三河から来て、松本へ去った

天正十八年(1590年)、徳川家康の関東入国にともない、三河二連木城にいた松平(戸田)康長がこの地に一万石で入りました。康長は家康の異父妹を妻に迎え、松平姓を許された人物です。

ところが慶長六年(1601年)、一万石を加増されて上野白井へ移ります。翌年には下総古河、慶長十七年には常陸笠間、元和二年には上野高崎五万石、そして元和三年、信濃松本七万石。関東を東へ北へと渡り歩いた末に、この家は信濃に落ち着きました。

その終着点が松本藩です。国宝の松本城天守を幕末まで守り、明治には町の人々に買い戻されることになる、あの戸田松平家の出発点が、武蔵の一万石でした。二十七年で一万石が七万石になっています。徳川の草創期には、こういう昇り方がありました。

藩として数えるかどうか

なお東方藩は、藩の一覧に載せる資料と載せない資料があります。存続期間が短く、城下町らしい城下町も形成されなかったためでしょう。ここでは『藩史事典』などが立項していることを踏まえて、藩として扱っています。

幕末の東方は、旗本六家の相給地だった

康長が去ったあと、東方村に大名は置かれませんでした。幕末には旗本六家が分けて支配する相給地になっています。同じ村を六人の領主が分け合う——関東ではめずらしくない形です。近くには深谷藩岡部藩忍藩があったが、東方村そのものはどこの大名領でもありませんでした。

いま東方城跡には土塁と空堀が残り、「史跡東方城塁跡」の標柱が立ちます。近くの全久院には、のちに松本七万石の主となる松平康長の五輪塔があります。

【場所・アクセス・地図】

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