下総山崎藩/岡部家1万2千石:岡部長盛 丹波亀山藩へ加増転封のため廃藩

【藩名】
下総山崎藩

【説明】
天正18年(1590年)の小田原征伐後、関東に入封した「徳川家康」は譜代の家臣「岡部長盛」に下総国葛飾郡山崎(千葉県野田市山崎)1万2000石を与えました。これが下総山崎藩の立藩です。

慶長5年(1600年)の「関ヶ原の戦い」では、長盛は下野国にて「上杉景勝」の牽制を務めました。慶長14年(1609年)、長盛は丹波亀山藩に加増移封されたため、下総山崎藩は廃藩となりました。

目次

幕末の山崎は、天領でした

下総山崎藩は天正十八年(一五九〇年)の小田原征伐のあと、関東へ入った徳川家康が岡部長盛に上総・下総で一万二千石を与えて成立しました。慶長十四年(一六〇九年)八月、長盛が丹波の亀山藩へ加増移封となり廃藩です。

藩庁は下総国葛飾郡山崎、いまの千葉県野田市山崎のあたりでした。ただし天正十九年(一五九一年)には堤台村の堤台城へ移ったとする記述もあります。

そのあとの山崎

山崎藩がなくなったあと、この土地は旗本一色氏の領地となり、さらに延宝元年(一六七三年)からは幕府領になりました。幕末まで天領だったことになります。

岡部家のその後

岡部長盛の家は転封を繰り返しました。丹波亀山から各地を経て、寛永十七年(一六四〇年)に岡部宣勝が和泉岸和田藩へ入って定着します。ここで幕末を迎えました。

山崎を出た岡部家は、岸和田で幕末を迎えました

三河譜代ではなく、駿河の今川家臣でした

岡部氏は藤原南家の流れを汲む工藤氏の庶流、入江氏の子孫を称し、駿河国益頭郡の岡部郷に住んだことから岡部を名のりました。戦国期の岡部信綱は今川氏親の重臣で、その子正綱は今川義元に仕えたのち、武田氏の駿河侵攻を経て武田方に転じ、天正十年(1582年)から徳川家康に仕えています。譜代とはいっても三河以来ではなく、駿河の今川家臣から徳川へ移った家です。家康の人質時代からの間柄だったとも伝えられます。なお正綱と長盛の系譜の接続には疑問が指摘されており、確定していません。岡部家からは四つの傍流が分かれ、それぞれ水戸徳川家・相馬中村藩・福井藩・土佐藩に仕えました。

十九年で山崎を出て、五十年で岸和田に落ち着きました

下総山崎の一万二千石は、岡部長盛の出世の出発点にすぎませんでした。慶長十四年(1609年)に丹波亀山三万二千石へ加増移封、寛永元年(1624年)に美濃大垣五万石。長盛の長男宣勝は寛永九年(1632年)に播磨龍野、寛永十二年(1635年)に摂津高槻を経て、寛永十七年(1640年)九月十一日に和泉岸和田へ入ります。ここが終着地でした。つまり幕末の岸和田藩岡部家は、下総山崎藩の岡部家がそのまま続いたものです。この藩ページで扱う十九年間は、その家の最初の一章にあたります。

最後の藩主は、司法大臣になりました

岸和田藩の最後の藩主岡部長職は安政元年(1855年)の生まれです。明治元年十二月に伯父の隠居を受けて家督を継ぎ、明治二年(1869年)六月の版籍奉還で知藩事となりました。明治十七年(1884年)七月八日に子爵。その後は外務次官、特命全権公使、東京府知事を務め、明治四十一年(1908年)七月から明治四十四年(1911年)八月まで司法大臣、大正五年(1916年)四月に枢密顧問官となりました。大正十四年(1925年)に没し、墓は東京の青山霊園にあります。山崎に一万二千石を与えられた家の当主が、三百二十年後には司法大臣として法典を預かっていたことになります。

城跡は、まだ見つかっていません

長盛は天正十九年(1591年)に領内の堤台へ城を築いて移ったと伝わりますが、野田市は「堤台城の正確な場所や規模を示す遺跡は発見されていない」と明記しています。最初の陣屋を梅台に置いたとする説もありますが、こちらも裏づけがありません。十九年で消えた藩の痕跡は、地面の下にも残らなかったわけです。野田市山崎で国の史跡に指定されているのは、藩とは無関係の山崎貝塚(昭和五十一年十二月二十三日指定)です。

本陣を置かなかった宿場

藩がなくなったあとの山崎は、日光東往還の第一番目の宿場「山崎宿」になりました。江戸期の戸数は三十数戸。特定の本陣を置かず、大名や公家が通るたびに名主や問屋が協議して本陣・脇本陣を決めたという、めずらしい運用をしていました。三十数戸の村に常設の本陣を置く余裕がなかったということでもあります。いま山崎宿に残るのは、昭和初期に復元された常夜灯だけです。

【場所・アクセス・地図】

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