下野山川藩/太田家1万5千6百石:太田資宗 三河国西尾藩へ移封とり廃藩

【藩名】
下野山川藩

【説明】
太田重正の次男「太田資宗」は「徳川家光」に仕えて5600石の旗本となりました。さらに「松平信綱」や「阿部重次」「三浦正次」「阿部忠秋」「堀田正盛」と並んで家光側近六人衆の一人にまで栄進しました。このため、寛永12年(1635年)、下野国山川に1万石の加増を受けて1万5600石の大名として諸侯に列しました。しかし3年後の寛永15年(1638年)、資宗は三河国西尾藩に移封となったため山川藩は廃藩となりました。

【廃藩のあと——幕末の山川】

太田資宗が三河西尾へ移った翌年、寛永十六年(1639年)に三浦正次が壬生へ入り、その際に下総の結城郡・猿島郡で六千九百石が与えられました。これが「山川領」と呼ばれ、藩主家が交代しても引き継がれて幕末まで続きます。壬生藩は山川城跡に陣屋を置いて統治しました。

この飛地の陣屋が実際に軍事拠点として動いた記録があります。元治元年(1864年)の天狗党の乱で、壬生藩は山川陣屋に兵力を動員しました。常陸から関東一円へ波及した騒動が、下総の飛地にまで及んでいたことになります。

本体の壬生藩も慌ただしく動きます。慶応三年(1867年)十月の大政奉還後、幕府から江戸城の警備を命じられますが、翌慶応四年一月三日の鳥羽伏見の敗報で新政府側へ転じました。四月十一日、新政府軍が宇都宮城に入るも旧幕府軍の反撃で落城。新政府は壬生城を拠点に奪回作戦を進め、四月二十二日の安塚の戦いで旧幕府軍を宇都宮へ押し戻しています。三月二十九日には安塚村で打ちこわしが起き、下野一円に世直し一揆が広がりました。

なお、この藩を「下野山川藩」と呼ぶ資料と「下総山川藩」とする資料があり、表記が分かれています。城跡は茨城県結城市山川の山川城(綾戸城)跡です。

【場所・アクセス・地図】

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