生実藩/森川家1万石:森川俊方 戊辰戦争ではいち早く新政府に恭順した生実藩

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生実藩の歩み

「生実」は元々「小弓」と書かれ、戦国時代初期に古河公方の後継者争いに敗れた「足利義明」が千葉氏の重臣原氏の居城だった「小弓城」を奪って主城とし「小弓公方」を名乗りました。

生実藩/場所・アクセス・地図 森川家1万石:森川俊方 戊辰戦争ではいち早く新政府に恭順した生実藩【幕末維新写真館】

小弓公方「足利義明」は真里谷氏や里見氏を従えて房総一帯を制圧したが、第一次国府台合戦で「北条氏綱」に討ち取られ滅亡しました。後に原氏が旧領に復帰して地名を「生実」と改めたが、豊臣秀吉の北条征伐で北条氏に従い没落しました。

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江戸時代は寛永四年(1627年)から廃藩まで、森川家が一度も移らずに治めましたが、幕末時の藩主「森川俊方」は慶応四年(1868年)の「戊辰戦争」で、家臣を上京させて新政府軍に恭順を誓い、上洛しました。その後帰国の許可を得て江戸に入り、江戸市中取締役を務めています。

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明治二年(1869年)六月二十四日の「版籍奉還」で生実藩知事に任じられ、明治四年(1871年)の「廃藩置県」で郡県制度となり生実藩は廃藩となりました。

下総生実の森川家

生実藩は、下総国(現在の千葉県千葉市中央区生実)に置かれた一万石の藩で、藩主は森川家、陣屋を構える小藩でした。江戸湾に近い房総の地を治め、江戸を守る関東の小大名の一つでした。

いち早い恭順

戊辰戦争において生実藩は、いち早く新政府に恭順し、家名を保ちました。江戸に近く旧幕府との縁も深い土地柄でありながら、時代の流れを冷静に見極めたのです。小藩が動乱を無事に乗り切るための、堅実な選択がうかがえます。

老中に殉死した初代と、二十八歳で死んだ最後の藩主

生実藩は下総国、いまの千葉市中央区生実町に陣屋を置いた一万石の藩です。房総には転封を繰り返した藩が多いのですが、この藩は寛永四年(1627年)の立藩から廃藩置県まで、森川家十二代約二百四十年にわたって動きませんでした。

秀忠に殉じた初代

初代の森川重俊は二代将軍・徳川秀忠のもとで老中を務めた人です。そして秀忠の死に際して殉死しました。菩提寺の重俊院は、二代の重政が幕府の許しを得て建てた曹洞宗の寺です。生実に残る文化財のうち、もっとも大きいものはこの寺にあります。森川家累代の墓碑は昭和四十二年(1967年)に千葉市の史跡に指定され、境内には四十九基の墓碑が並びます。初代重俊とその正室、二代重政の三基は高さ二・八メートルを超える大型の板碑型の石碑です。

末期養子として継いだ十三歳

幕末の藩主は森川俊方です。嘉永三年(1850年)に生まれ、文久二年(1862年)十二月に先代が亡くなったときに末期養子として家督を継ぎました。数えで十三歳です。同月に従五位下・内膳正。慶応四年(1868年)二月に家臣を上京させて新政府への恭順を誓い、四月に自身も上洛しています。

明治二年(1869年)六月に生実藩知事となりましたが、明治十年(1877年)に二十八歳で亡くなりました。そのため明治十七年(1884年)の華族令で子爵を授けられたのは長男の森川恒です。恒は明治九年(1876年)生まれで、八歳のときに家を代表して爵位を受けたことになります。

藩の財政は苦しく、八代の森川俊知が家臣の俸禄を削る策をとりましたが効果はなく、領民の直訴を受けるほど困窮していました。藩校は郁文館と伝わりますが、これを記すのは百科事典の記述にとどまります。

生実城の一角にあった陣屋

この藩の陣屋は、中世の生実城の東側、城の一角に築かれました。現在の推定地は生実神社に隣接するあたりで、千葉市の歴史散歩のコースにも「生実藩陣屋跡」が含まれています。ただし遺構についての説明はなく、陣屋跡そのものに文化財の指定もありません。生実城の側には大手口の跡と空堀が残りますが、主郭は昭和四十年代の宅地開発で失われました。

廃藩後は生実県となり、明治四年(1871年)十一月に印旛県へ編入され、明治六年(1873年)六月に木更津県と合併して千葉県になりました。

生実藩をもっと詳しく

藩の成り立ち—一度は家を失った初代

生実藩の初代・森川重俊は天正十二年(1584年)の生まれで、徳川家康に仕えた森川氏俊の三男です。森川家はもともと尾張国の武士の家でした。

重俊は、はじめから順調に出世したわけではありません。慶長十九年(1614年)、幕府の重臣だった大久保忠隣が突然失脚して領地を取り上げられる事件が起こり、重俊もこれに巻きこまれて旗本の身分を失いました(改易)。大久保忠隣は小田原藩主で、家康の古くからの家臣でしたが、幕府の中の勢力争いに敗れたとも考えられています。

十年以上たった寛永四年(1627年)、重俊は罪を許され、しかも一万石を与えられて大名になりました。これが生実藩の始まりです。その後、大御所となった秀忠のいる江戸城西の丸で老中を務めました。秀忠が亡くなると、寛永九年(1632年)一月、四十九歳で後を追って殉死しています。

領地のようす

重俊が与えられた一万石は、下総国だけでなく、上総国と相模国にも分かれていました。そのうち陣屋のある下総国千葉郡の領地は七千三百石ほどで、陣屋のあった生実はいまの千葉市中央区生実町です。

藩主家の歩み

重俊のあとは重政、重信、俊胤と続き、森川家は十二代およそ二百四十年のあいだ、一度も領地を移されることなく生実を治めました。房総の藩としてはめずらしい例です。

この石高で動員できた兵の目安

江戸幕府の慶安二年(1649年)の軍役規定(案)とされるものでは、一万石あたり二百三十五人(騎馬十・鉄砲二十・弓十・槍三十・旗三)とされます。これを単純に当てはめると、一万石のこの藩はおよそ二百四十人が目安です。ただしこの規定は案のまま正式には出されなかったともいわれ、実際に動員した人数とは異なります。

参考:Wikipedia「生実藩」、コトバンク「森川重俊」

織田家の家臣から譜代大名へ—生実の森川家と浜野の港

尾張の森川家と、家康に招かれた氏俊

生実藩の森川家は、もとは尾張の織田氏に仕えた武士の家です。永禄八年(1565年)、徳川家康が一族の森川氏俊を家臣に招き、「森川」を名のらせたとされます。氏俊は文禄元年(1592年)に武蔵比企郡と上総山辺郡で二千石を与えられました。長男と次男は旗本として続き、三男が初代藩主の森川重俊です。家格は譜代で、江戸城では菊間に詰める家でした。

将軍の名をはばかって改名した森川俊胤

森川家で幕府の中枢に入ったのが、森川俊胤です。五代将軍綱吉の小姓、六代家宣の側衆・寺社奉行を経て、正徳四年(1714年)から享保二年(1717年)まで若年寄を務めました。もとの名は重令でしたが、享保九年(1724年)、のちの九代将軍家重の元服にあたり、「重」の字を避けて俊胤に改めています。以後の生実藩主が代々「俊」の字を使うのは、このためです。

浜野の「浜御蔵」と、内房の港

生実藩は、浜野村の北側に年貢米を納める米蔵「浜御蔵」を置いていました。宝暦五年(1755年)の絵図にも、その位置が描かれています。浜野は内房の大事な港で、土気・茂原へ向かう道の分かれ目でもあり、中世から品川との航路があったと伝えられます。生実藩の年貢米は、この浜野から海を渡って江戸へ運ばれたと考えられます。

二十八歳で亡くなった最後の藩主

最後の藩主・森川俊方は嘉永三年(1850年)の生まれで、実父は出羽松山藩主の酒井忠方です。戊辰戦争では早くに新政府に従い、明治元年(1868年)十二月には東京の市中取締役を務めました。明治十年(1877年)、二十八歳の若さで亡くなっています。千葉市中央区生実町の重俊院には「森川家累代の墓碑」があり、千葉市の史跡に指定されています。

将軍家との近さが、家の生き方だった

一万石の生実藩は、江戸からほど近い下総にあって、藩主が若年寄として幕府に仕える「江戸に近い大名」の典型だったと思います。初代は秀忠に殉じ、俊胤は将軍の名をはばかって名を変えた。将軍家との距離の近さが、この家の誇りであり、同時に生き方そのものだったのでしょう。

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