佐倉藩/堀田家11万石:堀田正倫 藩主不在の中新政府軍に恭順し改易を逃れた佐倉藩

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佐倉藩の歩み

現在の印旛郡酒々井町には下総守護千葉氏の家系に連なる佐倉千葉氏の居城「本佐倉城」があるが、江戸時代の佐倉城とは別です。現在の佐倉城は幕府重臣だった「土井利勝」が江戸時代に入ってから築城した珍しい城です。

佐倉藩/場所・アクセス・地図 堀田家11万石:堀田正倫 藩主不在の中新政府軍に恭順し改易を逃れた佐倉藩【幕末維新写真館】

佐倉藩主は代々譜代大名が城主となり、土井家をはじめ堀田氏、戸田氏、大久保氏、松平氏、小笠原氏などが歴任しました。幕末時の藩主は「堀田正睦」で、蘭学を奨励し、医師「佐藤泰然」を招いて佐倉城下の本町(佐倉市本町もとまち)に「佐倉順天堂」を開かせました。

ペリー来航以降、正睦は外国事務取扱の老中となり、ハリスとの日米修好通商条約締結などで奔走するが、「井伊直弼」の大老就任で、老中を罷免され蟄居しました。

父正睦の失脚で家督を譲られた「堀田正倫」は、慶応四年(1868年)の「鳥羽伏見の戦い」後、朝廷から「徳川慶喜」討伐令が下ると、上洛して慶喜の助命と徳川宗家の存続を嘆願しました。しかし新政府から拒絶されただけでなく、京都に軟禁状態にされました。このため、藩主不在となった「佐倉藩」は藩論がまとまらなかったが、家老の「平野縫殿」が「新政府軍」に与して大多喜藩への出兵を決断したため戊辰戦争後の改易を免れました。

「版籍奉還」後は佐倉藩知事となり、「廃藩置県」にて佐倉藩が廃藩になると東京へ移住しました。

佐倉藩をもっと深く—勅許を得られなかった老中と、東の蘭学の都

堀田正睦、上洛する

安政の初め、幕府の老中首座として開国交渉の矢面に立っていたのが、佐倉藩主・堀田正睦です。アメリカ総領事ハリスとの談判をまとめ、日米修好通商条約の内容はほぼ固まりました。

残るは形式だけ—のはずでした。ところが幕府は、この条約に朝廷の勅許を得ようとします。前例のないことです。二百五十年、外交は幕府の専権でした。それをあえて京に伺いを立てたのは、国内の反対を抑えるためでした。

安政五年、正睦は自ら京都へのぼり、そして断られました。朝廷は勅許を出しませんでした。

この失敗が幕末の政治を決定的に変えました。幕府は自分の意思だけでは国を動かせない、と天下に知らせてしまったからです。以後、あらゆる政治勢力が京都を目指すようになります。彦根藩の井伊直弼が大老に就いて無勅許のまま調印に踏み切ったのは、この直後でした。正睦は罷免され、佐倉で蟄居します。

「西の長崎、東の佐倉」

その正睦が藩に残したものは、外交ではなく学問でした。天保十四年、蘭方医の佐藤泰然が佐倉に開いた蘭学塾兼診療所—のちの順天堂は、藩主の保護なしには成り立たありませんでした。正睦は「蘭癖」と陰口をたたかれるほどの洋学好きだったのです。

「西の長崎、東の佐倉」と言われるまでになったこの塾では、当時の日本で最先端の外科手術が行われ、全国から医者の卵が集まりました。現在の順天堂大学は、ここに源を発しています。

泰然の子どもたち

佐藤泰然の息子たちが、また面白いです。

名 その後
松本良順 幕府医学所頭取。新選組の隊士を診察し、屯所の衛生を改めさせた。のち初代の陸軍軍医総監
林董 外交官。駐英公使として日英同盟の締結にあたった

一人の蘭方医の子から、幕府軍の軍医の長と、明治日本の外交を担う人物が出ました。医学と外交という、佐倉藩が幕末に関わった二つの分野が、そのまま次の世代に受け継がれています。

石垣のない城

佐倉城には石垣がありません。関東の台地の土を掻き上げた土塁と、深い空堀でできた城です。石が採れない土地の城は、こういう形になります。それでも要害としては十分で、江戸の東を守る役目を果たしました。

明治になると城跡には陸軍の連隊が置かれ、建物はことごとく取り払われました。いまその場所に建っているのは、国立歴史民俗博物館です。歴史を展示する施設が、削り取られた歴史の上に建っています。土塁と空堀だけは、いまも歩ける形で残っています。

藩主は、京都で軟禁されていました

「藩主不在」とは何だったのか

当ページの見出しにある「藩主不在の中」という言葉の中身を、佐倉市の公式説明が書いています。

最後の藩主堀田正倫(まさとも)は、慶応四年(1868年)、新政府に敵意がないことを釈明するため上洛を試みましたが、その途上で捕らえられ、「京都に軟禁状態にされました」。辞典(新訂 政治家人名事典)は、上京して「徳川氏のため哀訴」したところ、佐倉藩の方針が曖昧だとして謹慎を命じられ、まもなく許されて帰城した、と書いています。

藩主が釈明に行って、そのまま足止めされた。そのあいだに国元が新政府側に付き、改易を免れたわけです。上京と帰国の正確な日付はわかっていません。

正倫は嘉永四年(1851年)生まれ、正睦の四男で江戸生まれ。安政六年(1859年)、正睦の隠居にともない幼くして家督を継ぎました。戊辰の年には数えで十八歳です。明治二年に佐倉藩知事、明治四年に退官して東京へ移りました。

二十年たって、佐倉へ戻ってきました

正倫の面白さは、そのあとです。

佐倉市公式によれば、明治二十年に宮内省が華族の地方移住を認めると、正倫は佐倉に戻ることを決め、明治二十三年に佐倉に邸宅を構えました。これが現在の旧堀田邸です。明治二十二年着工、翌年にほぼ完成した七棟の建物群で、国の重要文化財(名称は旧堀田家住宅)の指定は平成十八年七月五日、庭園「旧堀田正倫庭園」は平成二十七年三月十日に国の名勝となりました。

そして明治三十年(1897年)には堀田家農事試験場を設立し、佐倉中学校(現在の佐倉高校)に多額の寄付と支援を行いました。京都で軟禁された十八歳の藩主が、四十代になって旧領に戻り、農業と教育に金を出した—明治の旧藩主としては、かなり珍しい身の振り方です。明治十七年に伯爵、明治四十四年一月十一日に六十一歳で没し、墓は甚大寺にあります。

父の堀田正睦は文化七年八月一日生まれ。天保十二年に本丸老中、安政二年(1855年)十月に老中首座となり、条約勅許に失敗して安政五年六月に老中を退き(世界大百科事典は「大老井伊直弼に老中を罷免された」、ブリタニカは「辞任」と表現が分かれます)、翌年隠居、文久二年(1862年)に蟄居、元治元年三月二十一日に五十五歳で没しました。

入封したときは十万石でした

堀田家が佐倉に入ったのは延享三年(1746年)、堀田正亮のときで、出羽山形からの転封です。そして石高について、辞典は「十万石、のち一万石加増」と書いています。十一万石は後からの数字です。

佐倉藩を「老中の城」と呼ぶ言い方がありますが、佐倉市公式にはこの表現が出てきません。辞典が書くのは「歴代藩主が幕府要職に就くことが多かった」という趣旨までです。

ついでに一つ。天保の印旛沼掘割普請(水野忠邦が着手して失敗)は佐倉のすぐそばの工事ですが、普請を命じられた藩のなかに佐倉藩の名は見あたりません。地元の沼の工事を、地元の藩はやっていないのです。

城跡に国立博物館があるのは、連隊が去った跡だからです

佐倉城は慶長十五年(1610年)に入った土井利勝が、慶長十六年から元和二年(1616年)にかけて築いた平山城です(佐倉市公式)。

明治に入ると、城址には陸軍歩兵第二連隊(のちの第五十七連隊、通称・佐倉連隊)が置かれました。千葉県公式によれば「明治六年、兵舎建設のため本丸銅櫓、隅櫓、御殿、大手門」などが取り壊され、昭和二十年まで軍隊が置かれています。城の建物を壊したのは戊辰戦争ではなく、兵舎の建設でした。

戦後は昭和三十九年に佐倉城址公園となり、昭和五十四年に病院が城外へ移転したあと、昭和五十八年に国立歴史民俗博物館が設置されました(千葉県公式)。歴博の公式説明では「昭和56(1981)年に設置」「昭和58(1983)年三月に開館」。佐倉市公式は「明治百年記念事業として」と書いています。なぜこの場所が選ばれたのかは、歴博・佐倉市のどちらも説明していません。日本100名城は二十番です。

順天堂の建物は、安政五年のものです

「西の長崎、東の佐倉」の拠点佐倉順天堂は、天保十四年(1843年)に佐藤泰然が開いたものですが、現存する建物は「安政五年(1858)に建てられた建物の一部」です(佐倉市公式)。千葉県指定史跡(名称は旧佐倉順天堂)の指定は昭和五十年三月二十八日。辞典は順天堂を「日本最初の私立蘭方医院とされる」と書いています。堀田正睦が条約勅許で上洛した年に建てられた建物ということになります。

武家屋敷では、旧河原家住宅が千葉県指定有形文化財(昭和六十年三月八日指定)で、弘化二年(1845年)にはすでにあったと考えられています。佐倉市公式は「市内に残る最古の武家住宅」としています。平成元年に移築復原。旧但馬家住宅は元の場所に残り、旧武居家住宅は移築です。

藩校は成徳書院で、前身は温故堂、起源は寛政四年(1792年)の学問所です(千葉県公式「鹿山文庫関係資料」)。儒学・兵学・医学・蘭学を教えました。「成徳書院」に改めた年はわかっていません。

産業では、佐倉炭の最古の記録が1730年の俳諧集『鶯宿梅』で江戸中期からのもの。千葉の落花生は明治九年(1876年)二月、山武市草深の牧野萬右衛門が神奈川県から種子を持ち帰ったのが始まり(千葉県公式)で、幕末とも佐倉とも関係がありません。

廃藩置県で佐倉県となり、明治四年十一月に印旛県(県庁は葛飾郡加村=現在の流山市)、そして明治六年(1873年)六月十五日に木更津県と印旛県が合併して千葉県が誕生しました。→ 高崎藩・磐城平藩

佐倉藩をもっと詳しく

先祖の戦国武将—尾張津島の堀田氏

堀田氏は、尾張国中島郡堀田村に起こった土豪とするのが古くからの説ですが、家紋や土地の結びつきから、京都の祇園八坂神社の社家(紀姓堀田氏)の流れで、尾張の津島天王社(いまの津島神社)の祠官となった一族の子孫とする説が有力とされます。戦国時代には津島を基盤に武士として力をつけ、斎藤氏・織田氏・豊臣氏に仕えた堀田盛重が知られています。江戸時代の大名家につながる堀田正吉は、関ヶ原の戦いののち徳川家に仕えたといわれます。

二度入った堀田家—正盛・正信と佐倉惣五郎の伝承

堀田家が佐倉に入るのは、じつは二度目です。一度目は寛永十九年(1642年)、三代将軍徳川家光に重く用いられた堀田正盛が、信濃松本から十一万石で入りました。正盛は慶安四年(1651年)、家光が亡くなると後を追って殉死しています。

跡を継いだ子の堀田正信は、幕府の政治に不満を抱いて無断で佐倉へ帰ったため、万治三年(1660年)に領地を取り上げられました(改易)。この正信の時代を舞台にして生まれたのが、領民の苦しみを将軍に直訴して処刑されたという義民・佐倉惣五郎(木内惣五郎)の話です。ただし事実として確かめられることは少なく、公津村の有力な農民が処刑された出来事が、のちに堀田家の改易と結びつけられて語られるようになった可能性が指摘されています。延享三年(1746年)に再び佐倉へ入った堀田正亮は、惣五郎父子の慰霊を行い、以後の藩主もそれを受け継ぎました。

本家と分家・親戚の家

正信の改易のあと、堀田家の流れを保ったのは正盛の三男・堀田正俊(1634年〜1684年)でした。正俊は春日局の養子として育てられ、上野安中二万石などを経て、天和元年(1681年)に大老となります。しかし貞享元年(1684年)、江戸城内で若年寄の稲葉正休に刺されて亡くなりました。この正俊の家が堀田家の本家とみなされるようになり、正俊の孫にあたる正亮(正俊の四男・正武の長男)が、出羽山形から佐倉へ移って、幕末まで続く佐倉藩堀田家の初代となりました。

分家としては、近江宮川藩(いまの滋賀県長浜市)と下野佐野藩(いまの栃木県佐野市)の堀田家が幕末まで大名として続いています。明治十七年(1884年)の華族令では、本家の堀田正倫が伯爵、分家の堀田正養(宮川)と堀田正頌(佐野)が子爵となりました。

領地のようす—出羽にもあった佐倉藩領

十一万石の領地は、下総国内がおよそ七万石で、残りのおよそ四万石は遠く離れた出羽国村山郡(いまの山形県)にありました。山形から移ってきた事情によるもので、出羽の領地は柏倉(かしわぐら)陣屋(いまの山形市)を拠点に治められていました。

この石高で動員できた兵の目安

江戸幕府の慶安二年(1649年)の軍役規定(案)とされるものでは、一万石あたり二百三十五人(騎馬十・鉄砲二十・弓十・槍三十・旗三)とされます。これを単純に当てはめると、幕末の十一万石のこの藩はおよそ二千五百九十人が目安です。ただしこの規定は案のまま正式には出されなかったともいわれ、実際に動員した人数とは異なります。

参考:Wikipedia「佐倉藩」「堀田氏」「堀田正俊」「堀田正亮」

場所・アクセス・地図

佐倉の現地を歩いた記録

佐倉藩の城跡は、当サイトの運営者が実際に訪ねて撮影しています。記事は次の二本です。

残っている石垣や堀、現地の解説板に何が書かれているかは、文献だけでは分かりません。写真はすべて現地で撮影したものです。藩の歴史を読んだあとに、その藩が拠った場所を見てみてください。

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