上総八幡藩/堀家1万石:堀直宥 越後椎谷藩へ移封のため廃藩

上総八幡藩 堀家1万石 最後の藩主 堀直宥
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上総八幡藩の歩み

上総苅谷藩主であった譜代大名の「堀直良」は寛文八年(1668年)十二月に陣屋を苅谷から市原郡八幡に移し、上総八幡藩が立藩しました。直良は元禄四年(1691年)二月に49歳で死去しました。後を子の堀直宥が継いだが元禄十一年(1698年)三月に越後「椎谷藩」に移されたため、八幡藩は廃藩となりました。

幕末の八幡は、旗本領でした

上総八幡藩は寛文八年(1668年)、堀直良が父の隠居で家督を継いだあと、夷隅郡の苅谷から市原郡八幡へ居所を移して成立しました。湊町としての便がよかったためとされます。

藩主は堀直良、次いで堀直宥。石高は一万石でした。元禄十一年(1698年)に廃藩となっています。元禄十一年(1698年)、所領が越後へ移されて陣屋を椎谷に置き、越後椎谷藩となったため廃藩となりました。

その後の八幡は分割されました。市原市の郷土資料によれば、八幡・五所・山木に分かれ、旗本領や寺社領として支配されたまま明治維新を迎えています。

陣屋跡は、まだ確定していません

八幡陣屋跡とされる場所は、JR八幡宿駅の北およそ三百メートル、飯香岡八幡宮の東およそ三百五十メートルのあたりです。市原歴史博物館は「江戸時代前期末に堀家ないし大久保家の陣屋が置かれていた」と推定しています。

ただし平成十三年(2001年)の発掘では、出土したのは幕末から近代以降のものが多く、近世まで遡る明確な痕跡は認められませんでした。陣屋の遺構だと確定するには至っていません。

【廃藩のあと—幕末の八幡】房総往還の宿と港

上総八幡藩は、堀家一万石の藩です。もとは上総苅谷藩(現在のいすみ市苅谷)で、寛文八年(1668年)に堀直良が市原郡八幡へ居所を移して八幡藩となりました。そして元禄十一年(1698年)、所領が越後国の沼垂・蒲原・三島の三郡に移されて陣屋を椎谷に定め、越後椎谷藩となります。つまりこの藩は椎谷藩の前身で、幕末には上総に藩としての八幡はありません。

陣屋の場所は確定していない

八幡陣屋の跡は、市原市の埋蔵文化財として登録されています。場所は現在のJR八幡宿駅の北三百メートルほど、八幡の市街の中心で、西へ三百五十メートルほどに飯香岡八幡宮があります。ただし陣屋の正確な位置は決まっていません。飯香岡八幡宮の付近、妙長寺の付近、浜本町の付近と諸説があり、平成十三年(2001年)の発掘調査で礎石を用いた建物の跡は見つかったものの、出土した陶磁器は幕末から近代のものが多く、市の歴史博物館は「陣屋関連の遺構を確定することはできませんでした」と述べています。

幕末は幕府領と旗本領の入り混じる土地

明治初年の市原郡は、幕府領・旗本領・与力給知・同心給知に加えて、鶴牧・久留里・請西・高岡・館山・前橋・西大平・佐貫といった藩の領地が細かく入り組んでいました。八幡村はそのうち幕府領・旗本領の区分に含まれます。一つの藩がまとめて治めていた土地ではありません。

町としての八幡は、飯香岡八幡宮の門前町であり、房総往還の宿場でした。房総往還は船橋で佐倉道と分かれ、木更津を経て館山へ至る道で、八幡・五井・姉崎に継場が置かれて人馬の継ぎ替えが行われました。さらに八幡には港がありました。五大力船が停泊し、上総の年貢米や九十九里浜の海産物が集まる江戸との海運の拠点で、船主や商家、料亭が並んでいたと市の資料は伝えます。港は縦澪と横澪からなるT字の形で、戦後に埋め立てられました。

近くの藩の幕末

八幡の周りでは、いくつもの藩が幕末を迎えています。慶応四年(1868年)には沼津から水野家が五万石で市原郡菊間村へ移って菊間藩が立ち、藩士六百四十戸余りが移り住みました。姉崎の鶴牧藩は文政十年(1827年)に立藩し、陣屋を「鶴牧城」と公称して廃藩置県まで続きました。跡地は現在の姉崎小学校の敷地で、石碑とソテツが残ります。そして請西藩の林忠崇は藩を捨てて遊撃隊に加わり、戊辰戦争で領地をすべて没収された唯一の藩主となりました。

八幡に残るもののうち、いちばん古いのは飯香岡八幡宮の本殿です。室町時代末期の建立と考えられ、昭和二十九年(1954年)九月十七日に国の重要文化財に指定されました。拝殿は元禄四年(1691年)の墨書銘があり、昭和四十一年(1966年)五月二十日に千葉県の有形文化財となっています。廃藩置県ののちは木更津県に入り、明治六年(1873年)に印旛県と合併して千葉県になりました。

薄田兼相を討った直之と、八幡の湊

藩祖・堀直之

藩祖の堀直之(1585〜1642)は、堀秀治の家老・堀直政の四男です。大坂夏の陣の道明寺の戦いで薄田兼相を討ち取ったとされ、その後、寛永8年(1631)に江戸北町奉行、寛永17年に寺社奉行を務めました。寛永10年に上総で4千石を加増されて計9千5百石となり、夷隅郡苅谷に陣屋を置いています。大名になったのは子の直景の代です。

直良と直宥

初代の堀直良は大坂城加番を計4回務めたとされます。2代の堀直宥(なおさだ)は寛文5年(1665)生まれで、正室は桑山一玄の娘を岸和田藩主・岡部行隆の養女として迎えました(下総山崎藩の岡部家です)。

八幡の湊と椎谷藩のその後

市原歴史博物館の資料によると、八幡港の近くには水神として海住神社が祀られていました。八幡宿の霊応寺跡は、小弓公方の足利義明が仮に葬られた場所と伝わります。移った先の越後椎谷藩は譜代1万石の定府大名で、嘉永4年(1851)には家老による藩主暗殺未遂も起きました。北越戦争では椎谷が大きな被害を受け、明治17年に子爵となっています。

考察:奉行の家から大名へ

町奉行と寺社奉行を歴任した直之の実務の力が、子の代の大名取り立てにつながりました。武功で始まり、行政の実績で家を大きくした堀家の歩みは、戦国から江戸への武士の転身をよく映していると思います。

場所・アクセス・地図

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