高滝藩(信濃国坂木藩支藩)/板倉家2万石:板倉重高 備中庭瀬藩へ移封のため廃藩

高滝藩(信濃国坂木藩支藩) 板倉家2万石 最後の藩主 板倉重高
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高滝藩(信濃国坂木藩支藩)の歩み

天和三年(1683年)、信濃坂木藩五万石の藩主「板倉重種」の甥である「板倉重宣」が重種から二万石を分与され「高滝藩」が立藩しました。所領は上総市原郡のほか、信濃伊那郡・佐久郡の三郡にありました。しかし重宣は貞享元年(1684年)に21歳の若さで死去し、後を養嗣子の「板倉重高」が継ぎました。重高は元禄十二年(1699年)、備中庭瀬藩に移封されたため「高滝藩」は板倉氏の支配を最後に廃藩となりました。

本家・坂木藩との関係

高滝藩は、信濃の板倉家二万石の藩で、坂木藩から分かれた支藩でした。

ただし、この藩は幕末まで続いた藩ではありません。藩主・板倉家が備中の庭瀬藩へ移されたことにともない、高滝藩は廃藩となりました。板倉家はその後、庭瀬藩として幕末を迎えています。

陣屋は高滝ではなく、隣の大和田にありました

この藩については、二つ整理しておくことがあります。まず立藩したのは板倉重高ではなく板倉重宣です。天和三年(1683年)に坂木藩主板倉重種から二万石を分けられたのが重宣で、貞享元年(1684年)に二十一歳で亡くなったあと、丹波園部藩主小出英知の三男である重高が養子に入りました。

もう一つ、陣屋の場所です。高滝ではなく、いまの市原市大和田の字後山に置かれたと伝わります。現在は宅地や田畑になっており、遺構は残っていません。石碑も見つかっていません。高滝ダムの湛水域にはかかっていないようです。

元禄十二年(1699年)に重高が備中庭瀬藩へ移ったあと、高滝村そのものの領主はわかっていません。ただし近くの加茂村は正徳年間以降に旗本水野家の知行地、宮原村は元禄期以降に旗本近藤家と大岡越前守家の相給とされます。板倉家が去ったあとは、旗本領と社領が入り組む形になったようです。鶴牧藩領だったとする根拠は見つかりませんでした。鶴牧藩の立藩は文政十年(1827年)で、藩庁は椎津です。

高滝で見ておきたいのは高瀧神社です。江戸時代は「加茂大神宮」と称し、近隣五十三か村を氏子とする大社でした。戦国期に里見氏から社領二十七石、天正十九年には家康の関東入部にあたって社領十石を安堵されています。いまの社殿は享保十二年(1727年)の造営で、境内の森は千葉県の天然記念物です。

幕末、この一帯は慶応四年閏四月の五井戦争の後背地にあたります。近くの鶴牧藩では椎津村付近も戦場となり、鶴牧陣屋の外廓が炎上しました。藩は新政府に恭順しましたが、一部の藩士は旧幕府軍として戦い、瑞安寺に五名の墓が残ります。

そして明治元年(1868年)、徳川宗家の駿府移封で上総の地図が塗り替わります。高滝は七月に宮谷県の管轄となり、十一月には鶴舞藩領となりました。鶴舞藩は遠江浜松藩が移ってきたもので、市原郡百二十村ほかで六万二千石余。同じころ沼津藩が菊間藩として市原郡菊間村へ入っています。そのあと鶴舞県、木更津県を経て、明治六年に千葉県となりました。

名奉行・板倉勝重の一族

高滝藩の板倉家は、家康のもとで京都所司代を十九年務め、名裁判で知られた板倉勝重の一族です。勝重の次男・重昌は島原の乱の総大将として討ち死にし、その子・重矩は老中と京都所司代を務めました(三河中島藩)。高滝藩を分けた坂木藩主・板倉重種は、その重矩の子にあたります。

二代目の板倉重高は、丹波園部藩主・小出英知の三男で、養子として板倉家に入りました。小出家は、豊臣秀吉の叔母を妻とした小出秀政に始まる家で、秀吉の親類として取り立てられ、江戸時代には丹波の園部藩主として幕末まで続いています。豊臣の親類の家の子が、徳川の譜代の家を継いだことになります。

高滝を出た板倉家の幕末—備中庭瀬藩

重高は元禄十二年(1699)に備中の庭瀬(いまの岡山市北区)二万石へ移り、この家は明治まで庭瀬藩主として続きました。庭瀬の陣屋は、戦国時代の庭瀬城の跡に置かれ、まわりを水路と堀に囲まれた低湿地の城跡でした。すぐ隣には撫川(なつかわ)城の跡もあり、いまも水をたたえた堀と石垣が残っています。

同じ備中には、同族の板倉勝静が治める備中松山藩がありました。勝静は老中首座として将軍慶喜を支え、戊辰戦争では藩が朝敵とされます。上総の高滝から始まった小さな分家は、同じ板倉一族が幕府の最後の中枢を担うのを、すぐ近くで見ていたことになります。

坂木の家督争いと、光厳寺の宿

分知の裏にあった争い

天和元年(1681)、板倉重種は老中を罷免され、翌年に坂木へ1万石減らされて移されました。綱吉の後継問題で徳川光圀と対立したことに加え、実子の重寛と甥の重宣が家督を争い家中が乱れたことが重なったためとされます。天和3年5月の重種の隠居で5万石が3万石と2万石に分けられ、この2万石が高滝藩になりました。初代の重宣は、重種の兄・板倉重良の子です。

陣屋はあったのか

藩主が領地に入ったのは重高の2回だけで、どちらも大和田村の光厳寺を宿としたとされます。独立した陣屋はなかったとする説もあり、陣屋跡とされる場所の発掘でもこの時期の遺構は出ていません。大和田村には養老川の河岸があり、五井浦と舟で結ばれていました(五井藩も参照)。

庭瀬へ

重高は寛文6年(1666)生まれ、正徳3年(1713)に48歳で没しました。この家はのちに備中庭瀬へ移り、譜代として幕末まで続いています。殿席は菊間とされます。

考察:お家騒動の「落としどころ」としての藩

家督争いを収めるために家を二つに割る。高滝藩は、その解決策として生まれた藩だったと考えられます。藩主がほとんど来なかったのも、この藩が土地のためより家の事情のために存在したことの表れでしょう。

場所・アクセス・地図

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