大網藩/米津家1万石:米津政敏 出羽長瀞より移封にて立藩し龍ヶ崎藩へ移封のため廃藩

大網藩 米津家1万石 最後の藩主 米津政敏
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大網藩の歩み

出羽国長瀞藩知事であった「米津政敏」は、明治二年(1869年)十一月、長瀞から上総国山辺郡大網村の蓮照寺に陣屋を移し、大網藩が立藩しました。明治四年(1871年)二月、政敏は「龍ヶ崎」に藩庁を移したため、大網藩は「龍ヶ崎藩」となり、廃藩置県を待たずして廃藩となりました。

わずか一年三か月の藩でした

大網藩は明治二年(1869年)十一月に成立し、明治四年二月に消えています。存続は一年三か月ほど。幕末というより、維新直後に生まれた藩です。

前身は出羽国の長瀞藩。もとをたどれば武蔵国の久喜藩を治めていた米津家です。版籍奉還のあと、藩庁を上総国山辺郡大網—現在の千葉県大網白里市へ移して大網藩となりました。

藩主は米津政敏。石高一万一千石で、領地は出羽のほか武蔵・上総・下総・常陸に分散していました。陣屋は蓮照寺に置かれています。

長瀞時代に、陣屋を焼かれています

移転の背景には戊辰戦争がありました。慶応四年閏四月七日、天童藩が報復として長瀞陣屋を襲撃し、焼き払っています。このとき住民の嘆願によって米蔵は保護されました。

藩主の政敏は新政府への協力を約束します。焼けた陣屋には戻らず、所領のある上総へ移ったわけです。

そして龍ヶ崎へ

大網の時代も長くは続きません。明治四年二月、藩庁は常陸国河内郡龍ヶ崎村へ移り、龍ヶ崎藩となりました。同年七月の廃藩置県は、龍ヶ崎藩として迎えています。

大網陣屋跡には、いまも土塁が残っています。千葉県大網白里市大網の蓮照寺です。

移った時期は資料で違い、陣屋の場所も二説あります

大網は、米津家がかつて陣屋を置いた土地です

日本大百科全書の「大網藩」の項は、米津家が寛文六年(1666年)に大名となったとき山辺郡大網村に陣屋を置き、1798年に出羽の長瀞へ移り、1869年に大網へ戻ったと書いています。明治の移転は、七十年ほど前に離れた土地へ帰る形でした。長瀞時代のことは長瀞藩のページにあります。

明治二年か、慶応四年の春か

大網白里町史によれば、藩は明治二年(1869年)八月八日に大網村への移住を弁官に願い出て、八月十五日に出発し、十一月二日に大網藩知事となることが認められました。日蓮宗の蓮照寺を仮の藩庁にしています。

ところが、大網白里市デジタル博物館の別の解説は、藩の人びとが「慶応四年の春には東京を引き払って大網村に移住していた」としています。理由としては、所領が武蔵・上総・下総・常陸に多くあったことを挙げています。日付まで記された明治二年の話と、慶応四年に人が先に移っていたという話は、同じ市の資料の中で食い違ったままです。

陣屋は蓮照寺か、大網小学校の旧校地か

上の段では、陣屋の跡を蓮照寺としています。これは城郭を紹介する個人サイトの記述と同じです。一方、別の資料は、陣屋は中世の大網城の近くで建設が始まり、跡地は大網小学校の旧校地(学校は2012年に移転)だとしています。仮の藩庁が蓮照寺だったことは町史にありますが、陣屋跡が文化財に指定されているという公式な資料は見つかりませんでした。

龍ヶ崎へ移った理由

明治四年(1871年)二月、藩庁は常陸国河内郡龍ヶ崎村へ移りました。日本大百科全書は、大網村など三か村の領地が河内郡へ移されたためと説明しています。同年七月の廃藩置県で龍ヶ崎県となり、十一月十三日に廃止されて、河内郡の分は新治県へ移りました。

大網は、米津家が大名になったときの土地で、明治に一年あまりだけ藩庁が戻った土地でもあります。移った時期と陣屋の場所は、いまも資料によって分かれています。

米津家の先祖—徳川十六神将と江戸町奉行

大網藩の米津家は、三河以来の徳川家の譜代の家臣です。戦国時代の米津常春は、家康の父祖の代から松平家に仕えた古参の武将で、のちに「徳川十六神将」の一人に数えられました。三河一向一揆や姉川・長篠などの戦いで家康に従ったと伝えられます。

一族の米津田政は、江戸幕府が開かれてまもない慶長九年(1604)ごろから江戸の町奉行を務め、いわゆる北町奉行の初代とされる人です。江戸の町の治安と裁きを、草創期から担ったことになります。

大坂定番から大名へ

田政の子・米津田盛は、大坂城を守る大坂定番などを務め、寛文六年(1666)に加増を受けて一万五千石の大名となりました。このとき上総の大網に陣屋を置いたのが米津家と大網の縁のはじまりとされます(ただし田盛の加増地は河内国だったとする資料もあり、時期には検討の余地があります)。その後、分知によって一万一千石となり、寛政十年(1798)に出羽の長瀞へ陣屋を移しました。明治二年(1869)に大網へ戻ったのは、田盛の時代から数えて二百年余りのちのことでした。

宮谷県庁と隣り合った藩

大網村の姿

日本歴史地名大系によると、大網村の村高は慶長3年に2千6百石余で、村内には板倉氏の居城と伝わる大網城(要害城)跡がありました。蓮照寺は天正19年(1591)以来、朱印地を与えられていたといいます。米津氏が大網村で領していたのは村高のうち千石余りだったとされます。大網はかつて下総三浦藩の三浦重成の知行地でもありました。

なぜ大網へ移ったか

大網へ移った理由の一つは、関東の飛び地に旧幕府の脱走兵が入り込み、金品や食糧を求められたことだったとされます。明治2年春には東京を引き払い、「一藩残らず」大網村へ移ったといわれます。慶応3年には安房国朝夷郡白浜村を代地として与える話もありましたが、実現しませんでした。

藩と県が並んだ土地

大網白里市の沿革によると、大網藩が置かれたのと同じ明治2年、宮谷県の県庁も同じ市域の本国寺に置かれていました。明治4年に宮谷県の県庁が大網村に置かれることになり、藩は常陸の龍ヶ崎へ移ります(龍ヶ崎藩)。

考察:新しい行政に押し出された藩

藩が陣屋を構えたすぐそばに、新政府の県庁ができる。大網藩は、藩から県へと移り変わる明治初年の行政の変化を、文字どおり隣り合わせで体験した藩でした。

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