保内藩/松平家2万石:松平頼隆 常陸府中藩へ移封のため廃藩

保内藩 松平家2万石 最後の藩主 松平頼隆
目次

保内藩の歩み

寛文元年(1661年)九月、水戸藩主「徳川頼房」の五男「松平頼隆」は、兄で水戸藩2代藩主「徳川光圀」から二万石の領地を分与され、保内藩が立藩しました。元禄十三年(1700年)九月、幕府により領地を常陸国新治郡・茨城郡・行方郡や陸奥国岩瀬郡などに移されたことで、頼隆は常陸府中藩に移封されました。このときに頼隆は幕府から新たに二万石の所領を与えられたので、水戸藩から分与えられていた二万石を本藩に返還し、保内藩は廃藩となりました。

廃藩のあと—幕末の保内

保内郷は古代の「依上保(よりがみのほ)」に由来する地域名で、中心はいまの茨城県久慈郡大子町、常陸太田市の北部にも及びます。松平頼隆が常陸府中へ移ったあと、この地は水戸藩に戻り、幕末まで一貫して水戸藩領でした。南郷街道と久慈川の舟運が交わる要衝で、陣屋と郷校が置かれています。

そして水戸藩領であるということは、幕末に静かではいられないということでもありました。大子町の説明は率直です。尊王攘夷運動の広がりとともに、この地は天狗党と諸生党の内戦の場となり、多くの犠牲者を出しました。元治元年(1864年)のことです。

この地の産物にも触れておきます。こんにゃく、紙、茶、漆、たばこ、馬、そして金。なかでもこんにゃくは水戸藩の専売品として藩の財政を支えました。延享二年(1745年)に久慈郡諸沢村(現在の常陸大宮市)で生まれた中島藤右衛門が、こんにゃく芋を輪切りにして乾かし粉にする製法を考え出したためです。生のままでは腐りやすかったものが、軽くて日持ちのする商品に変わりました。

大子町にはその藤右衛門を祀る蒟蒻神社があります。近年まで各村で「藤右衛門講」が開かれていたそうです。

【廃藩のあと—幕末の保内】

保内藩の保内は、常陸国久慈郡の保内郷です。いまの茨城県久慈郡大子町を中心とする一帯にあたります。大子町は「今この地を『保内郷』と呼んでいるのは、すなわちこの『依上保』からきた名称だといわれています」と説明しており、昭和三十年三月三十一日に保内郷の一町八か村が合併して大子町になりました。藩の名が郷の名として生き残った土地です。

藩が置かれたのは保内郷三十三か村・約二万石。元禄十三年に松平頼隆が常陸府中藩へ移ると、保内の二万石は水戸藩へ返されました。大子町の説明では、この地は慶長七年に佐竹義宣が秋田へ移されて以降ずっと水戸徳川家のもので、明治四年七月の廃藩置県で水戸県、同年十一月十三日に茨城県となっています。

陣屋の跡は、見つかりません

正直に書いておくと、保内陣屋がどこにあったのかはわかっていません。大子町の歴史略年表にも、町・県の指定文化財一覧にも、保内藩や松平頼隆に関する項目は一つもありません。藩庁の痕跡が地元にまったく残っていない藩です。

光圀が十一回来た土地

その代わり、大子の年表には水戸藩の歴代当主が繰り返し出てきます。徳川光圀はこの地を十一回も巡村しており、文化二年に徳川治紀、文政七年には徳川斉昭が巡っています。寛永十八年の検地では大子地方の石高は二万九千百七十五石。安永五年(1776年)ごろには中島藤右衛門(現在の常陸大宮市諸沢の人)が粉こんにゃくの製法を考案し、明和四年に水戸藩が粉こんにゃくを含む主要国産物三十四品目を指定して取引を規制しました。

幕末の大子

幕末になると、この山あいの土地は水戸藩の内紛の舞台になります。万延元年(1860年)、桜田門外の変に加わった関鉄之介が大子地方に潜居しました。そして元治元年(1864年)、天狗党が筑波で挙兵すると武田勢が大子村に入り、諸生派と交戦しています。

大子町の指定文化財には、水戸藩の郷校である文武館の跡(町指定史跡、昭和五十年九月十二日)と文武館文庫があります。保内藩の痕跡ではなく、本家である水戸藩の痕跡が残った土地でした。県指定では鉾スギ(昭和六年十月十三日)、袋田の滝(名勝、昭和十五年三月二十七日)、浅川のささら(無形民俗、昭和三十年六月二十五日)などがあります。

近江の「保内」とは別です

なお滋賀県東近江市にも「保内」という地名があります。中世の四本商人の一つ、保内商人の本拠として知られる土地ですが、近江に保内藩は存在しません。名前が同じだけの別の場所です。

本願寺と毛利の血を引く殿様—松平頼隆と保内

家康の孫で、顕如の玄孫

保内藩主・松平頼隆は、水戸藩祖・徳川頼房の子で、寛永六年(1629年)の生まれです。母の耶々は興正寺の准尊の娘で、母方をたどると本願寺の顕如や毛利元就にもつながります。家康の孫でありながら、浄土真宗の本願寺家と毛利家の血も引いていたことになります。保内藩は常陸国久慈郡(いまの大子町)に置かれた水戸家の分家で、家格は親藩です。

額田藩との「双子の藩」

寛文元年(1661年)九月、頼隆は兄の徳川光圀から二万石を分けられて保内藩を立てました。同じ月、兄の頼元も二万石を分けられて額田藩を立てています。元禄十三年(1700年)九月には、頼元の子・頼貞が陸奥守山へ、頼隆が常陸府中へとそろって移り、どちらも分けられた領地を水戸藩に返しました。保内と額田は、同じ月に生まれ同じ月に移った「双子の藩」だったのです。

御連枝の府中藩

府中藩(いまの石岡市)に移ったあと、松平家は参勤交代のない定府の大名として江戸小石川に住み、江戸城では大広間に詰めました。家臣は約百五十人で、中心となる家臣は水戸藩から派遣されていました。水戸家の分家の四藩(高松・守山・宍戸・府中)は「御連枝」と呼ばれる格式の高い家でした。府中藩主の所領の多くは陸奥岩瀬郡にあり、陸奥長沼にも陣屋を置いています。

照光寺の墓所

府中藩主松平家の墓所は石岡市の照光寺にあり、大正十五年(1926年)に小石川の宗慶寺から移されました。頼隆は宝永四年(1707年)に七十九歳で亡くなっています。徳川・本願寺・毛利の血を引く殿様が、常陸の山あいの小藩から出発した。保内藩は、水戸家の分家の中でも興味深い出自を持つ藩です。

場所・アクセス・地図

関東の藩一覧(幕末) ›

  • URLをコピーしました!
目次