板垣退助とは何をした人物か—乾退助から自由民権の父へ。薩土密約、迅衝隊と会津、岐阜事件、後藤象二郎との友情とゆかりの地

板垣退助の肖像

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板垣退助の肖像
板垣退助

板垣退助(いたがき たいすけ)は、土佐藩の上士・乾家に生まれ、戊辰戦争では土佐の兵を率いて会津まで攻め上った人物です。明治になると政府を去って民撰議院設立建白書を出し、自由党を率いて「自由民権運動の父」と呼ばれるようになりました。

もとの名は乾退助。板垣の姓を名乗るのは戊辰戦争の最中からです。生まれと家、幕末の歩み、戊辰戦争、明治の民権運動、岐阜での遭難、幼なじみの後藤象二郎との関係、ゆかりの地の順にたどります。

目次

板垣退助とは—先に答え

生没天保八年(1837年)四月十七日、高知城下中島町に生まれる。大正八年(1919年)七月十六日、東京の自宅で死去。享年八十三
藩・身分土佐藩の上士。乾家、馬廻。家督を継いだときは二百二十石
名前幼名は猪之助、通称は退助。戊辰戦争の最中に乾から板垣へ改姓
幕末に何をした山内容堂の側用役などを務め、慶応三年に中岡慎太郎の仲介で西郷隆盛と武力討幕を約束した
戊辰戦争迅衝隊を率い、東山道先鋒総督府の参謀として甲州から会津まで転戦
明治参議から明治六年の政変で下野。民撰議院設立建白書、立志社、自由党総理。内務大臣を二度務めた
事件明治十五年四月六日、岐阜で演説のあと襲われ負傷(岐阜事件)
墓東京・品川神社の裏(品川区指定史跡)と、高知市薊野の分骨墓

生まれと家—上士・乾家の馬廻

板垣退助は天保八年(1837年)四月十七日、高知城下の中島町に生まれました。今の高知市本町二丁目、高野寺のあたりです。父は乾栄六正成。乾家は土佐藩の上士で、家格は馬廻でした。万延元年(1860年)に家督を継いだとき、二百二十石の馬廻役となっています。

乾家は山内家が土佐に入る前から仕えていた家です。高知市立自由民権記念館の解説によると、初代の乾正信は土佐入国のときに加増を受け、のちに養子が三百石で家を継ぎました。退助はそこから数えて十代目にあたります。家には、武田信玄の重臣・板垣信方(信形)の子孫だという言い伝えがありましたが、記念館は「真偽は不明」としています。

若いころの退助は、おとなしい青年ではありませんでした。安政三年(1856年)、同輩への不作法をとがめられて家督の相続権を取り上げられ、城下に入ることを禁じられています。のちに許され、万延元年に家を継いでいます。

近所には一歳年下の後藤象二郎がいました。家が近く、家柄も同じ馬廻で、二人は幼名で「ゐのす」「やす」と呼び合う仲だったと伝わります。

土佐藩の上士・郷士の分かれ方と、ほかの人物がどの身分に生まれたかは、土佐藩の有名人を身分で分けるとに一覧でまとめています。

幕末に何をしたのか—容堂の側近から武力討幕へ

吉田東洋に取り立てられる

退助は参政・吉田東洋の塾に通い、東洋に抜擢されて藩の役につきました。文久元年(1861年)には江戸の藩邸で御納戸方・江戸留守居内用役、翌文久二年には隠居した山内容堂の側用役になっています。上士として、藩主の家のすぐそばで仕事をする立場でした。

土佐勤王党との距離

武力で幕府を倒すべきだという考えは、武市半平太らの土佐勤王党と近いものでした。ただし退助は勤王党に加わってはいません。『日本大百科全書』は、慶応元年(1865年)に後藤とともに武市派の取り調べにあたったと書いています。考えは近くても、上士として藩の側に立っていたことになります。

中岡慎太郎の仲介で西郷と会う

慶応三年(1867年)五月、退助は京都で中岡慎太郎の紹介により薩摩の西郷隆盛と会い、武力討幕の挙兵を約束しました。薩土密約と呼ばれます。『世界大百科事典』はこの約束を五月二十一日としていますが、会った場所や取り決めの細かな中身までは事典に書かれていません。

同じ年、後藤象二郎は坂本龍馬と組んで、戦わずに政権を返させる大政奉還の路線を進めました。幼なじみの二人は、このとき違う道を歩いています。容堂の名で建白が出され、十月十四日に徳川慶喜は政権を返しました(大政奉還とは)。

戊辰戦争—迅衝隊を率いて会津へ

慶応四年(1868年)、戊辰戦争が始まると、退助は土佐藩の迅衝隊の大隊司令となり、東山道先鋒総督府の参謀として東へ向かいました。甲州では勝沼で近藤勇らの甲陽鎮撫隊を破り(近藤勇、最後の百日)、その後は宇都宮、日光方面を経て会津まで攻め上っています。

乾から板垣へ

姓を板垣に改めたのはこの戦いの最中です。自由民権記念館の解説によると、改姓したのは美濃の大垣で、甲州の浪人や神主に「武田の重臣・板垣信方の子孫」として呼びかけ、倒幕の隊に加わってもらうためでした。実際に甲州で断金隊という隊が組まれています。『日本大百科全書』は、東山道先鋒総督府の参謀として出陣したときから板垣を名乗ったとしています。

会津で見たもの

会津の城を攻めたとき、退助は、会津の民衆が武士と一緒になって戦っていたら、城を落とすのはもっと難しかっただろうと考えました。そこから、身分の上下なく国民が政治に加わる国でなければ外国に対抗できない、と考えるようになったといいます。のちの自由民権運動の出発点として、記念館が紹介している話です。

なお、日光東照宮を戦火から守ったのは板垣だという話がよく知られ、日光には「日光の恩人」として銅像も立っています。ただ、事典にこの話は出てこず、観光の案内も「といわれています」と書くにとどまっています。

明治—政府を去り、自由民権運動へ

明治四年(1871年)、退助は参議となって新政府の中枢に入ります。しかし明治六年(1873年)、朝鮮への使節派遣をめぐる政変で西郷隆盛・後藤象二郎らとともに政府を去りました。

翌明治七年、退助は後藤象二郎、副島種臣、江藤新平、由利公正、岡本健三郎、古沢滋、小室信夫と八人で民撰議院設立建白書を出し、選挙で選ばれた議会をつくるよう政府に求めました。同じ年、高知に立志社をつくっています。明治八年の大阪会議のあと一度は参議に戻りましたが、同じ年のうちにまた辞めました。

明治十四年(1881年)、国会を開くという天皇の詔が出ると、退助は自由党をつくって総理になります。詔の知らせを新潟で聞いたとき、「前途はなお遠い。喜ぶなかれ」と言ったと伝わります。

岐阜事件—「板垣死すとも自由は死せず」

岐阜事件の場面(イメージイラスト)
岐阜での演説会のあと、板垣が襲われた場面(イメージイラスト)

明治十五年(1882年)四月六日、退助は岐阜の金華山のふもと、中教院で演説をしたあと、相原尚褧(あいはら なおぶみ)という若者に短刀で襲われて傷を負いました。岐阜事件と呼ばれます。

このとき叫んだとされるのが「板垣死すとも自由は死せず」です。ただし、本人がこの言い回しで言ったかどうかははっきりしません。事典の多くも「叫んだという」「伝えられる」と書いています。当時の新聞では言葉も場面も記事によって違い、今の形にまとまったのは明治の終わりに編まれた『自由党史』だとされます。一方で、警察の記録にも「吾死スルトモ自由ハ死セン」に近い言葉が残されていて、似た言葉を口にしたこと自体は確かだろうという見方が有力です。

伯爵、内務大臣、そして晩年

明治二十年(1887年)、退助は伯爵に叙せられることになりました。民権を唱える自分が華族になるわけにはいかないと二度にわたって辞退しましたが、天皇から受けてほしいとの意向が伝えられ、同じ年の七月に受爵しています。伯爵になったことで衆議院議員にはなれず、貴族院の勅選議員も断りました。

その後、第二次伊藤博文内閣(明治二十九年)と、大隈重信と組んだ隈板内閣(明治三十一年)で、二度内務大臣を務めました。どちらも四か月ほどで辞めています。

明治三十三年(1900年)に政界を退いたあとは、華族は一代限りにすべきだと説く『一代華族論』を出し、風俗の改良や、刑務所にいる女性の子どもを支える事業などに力を入れました。大正八年(1919年)七月十六日、東京で亡くなりました。八十三歳でした。

後藤象二郎との関係—竹馬の友

板垣と後藤は、生まれた家も近く、ともに馬廻の上士の家の子でした。幕末には板垣が武力討幕、後藤が大政奉還と道が分かれましたが、明治六年にはそろって政府を去り、民撰議院設立建白書にも二人で名を連ねています。のちに後藤が政府に入って大臣になったとき、民権派の側からは裏切りとも見られましたが、明治三十年に後藤が亡くなったとき、追悼の演説をしたのは板垣でした。二人に佐佐木高行を加えた三人は、明治の土佐を代表する「土佐三伯」と呼ばれます。

上士に生まれたことの意味

同じ土佐の武力討幕派でも、郷士や庄屋の出だった武市半平太、坂本龍馬、中岡慎太郎は、藩の外に出て動くしかありませんでした。そして多くは明治を見ずに亡くなっています。上士の家に生まれた退助は、容堂の側近として藩の中から動き、戊辰戦争では藩の兵を率いる立場にいました。身分の違いが、幕末の動き方と、その後の人生の長さにまで表れています。

板垣退助ゆかりの地

板垣退助誕生地(高知市本町二丁目)

高知市本町二丁目三の十八、高野寺の門の横に「板垣退助先生誕生之地」の碑があります。大正十三年(1924年)に建てられました。

板垣退助銅像(高知城・追手門内)

高知城の追手門を入ってすぐ、石段の上り口に立つ銅像です。最初の像は大正十二年(1923年)に除幕されましたが、戦争中の金属供出で失われ、今の像は昭和三十一年(1956年)に建てられました。

板垣退助銅像(栃木県日光市)

日光市上鉢石町、神橋の近くに立つ像です。昭和四年(1929年)に建てられ、戦争中に供出されたのち、昭和四十二年(1967年)に再建されました。

板垣退助銅像(岐阜公園)

岐阜事件の地にちなむ像で、岐阜市の岐阜公園にあります。岐阜市の説明では大正七年(1918年)の建立で、供出ののち昭和二十五年(1950年)に再建されました。

国会議事堂の銅像

国会議事堂の中央広間に、伊藤博文・大隈重信と並んで立っています。昭和十三年(1938年)、憲法発布五十年を記念してつくられました。

板垣退助の墓(品川区北品川)

品川区北品川三丁目、品川神社の裏手の墓地にあります。もとは高源院の墓地だった場所で、品川区の指定史跡です。夫人の墓が並び、「板垣死すとも自由は死せず」を刻んだ碑もあります。

板垣退助の墓(高知市薊野)

高知市薊野東町には分骨の墓があり、夫人の墓も並んでいます。

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参考資料

  • コトバンク「板垣退助」(日本大百科全書・世界大百科事典ほか)
  • コトバンク「薩土盟約」(世界大百科事典)
  • 国立国会図書館「近代日本人の肖像」板垣退助
  • 高知市立自由民権記念館『板垣退助』解説
  • 高知市「板垣退助誕生地」
  • 高知市「板垣退助銅像」
  • 品川区「板垣退助墓」
  • 参議院「中央広間」
  • 岐阜新聞「板垣死すとも自由は死せず」
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