【藩名】
真岡藩
【説明】
寛永4年(1627年)、「堀親良」が下野烏山藩に加増移封された後、「稲葉正成」が2万石で入封しました。正成は「小早川秀秋」の家老だったが、秀秋没後は徳川家の家臣となって福井藩主「松平忠昌」付家老を経て大名となりました。しかしその翌年に正成は58歳で死去し、跡を正成の子「稲葉正勝」が継ぎ自分が領していた柿岡2万石と父の遺領である2万石の合わせて4万石の藩主となりました。
なお、稲葉正成は将軍家光の乳母「春日の局」前夫です。稲葉家はこの繋がりにより子孫まで繁栄していきました。
正勝はその後「徳川家光」のもとで老中となり、「加藤忠広」改易のときの事後処理などを担当した功績から、寛永9年(1632年)に相模小田原藩に加増移封されました。これにより真岡藩は廃藩となり、その所領は小田原藩の飛び地領を経て、天明3年(1783年)からは幕府直轄地(天領)となりました。
【真岡は二宮尊徳が二十六年を過ごした土地です】
まず整理しておきます。二宮尊徳が復興した桜町領は、真岡代官所の仕事ではありません。小田原藩主大久保家の分家である旗本宇津家の知行四千石で、尊徳は藩主大久保忠真の命を受けて赴任しました。尊徳が真岡代官の山内氏の属吏となったのは弘化元年(1844年)以降のことで、そのときの対象は幕領と日光神領でした。桜町の仕事とは別の話です。
その桜町での歩みを追います。文政四年(1821年)に三十五歳で桜町の調査を始め、翌文政五年に小田原藩から名主格役として復興を命じられ、文政六年には田畑も家財も一切売り払って、一家をあげて桜町へ移りました。天保二年(1831年)に第一期の仕法を終え、天保七年までに実収を三千石まで増やしたとされます。真岡市の説明では、尊徳は二十六年間ここに在陣して執務しました。その後は青木村、茂木藩、烏山藩へと仕法を広げ、安政三年(1856年)に七十歳で亡くなりました。
桜町陣屋の跡は国の史跡です。元禄十二年(1699年)に宇津家が置いた陣屋で、東西約九十メートル、南北約百九メートル。明治四年まで百七十二年間機能し、茅葺屋根の建物が現存します。昭和七年三月二十五日の指定です。隣に二宮尊徳資料館があり、入館は無料です。
真岡そのものの陣屋も見ておきます。寛政九年(1797年)、幕府代官の竹垣三右衛門直温が真岡城の跡地に真岡陣屋を開きました。代官には当初裁判権がなく、軽い事件でも口書を作って勘定所の決裁を仰ぐ必要がありました。真岡城の跡はいま真岡小学校と城山公園で、土塁と堀の痕跡が残ります。
もう一つ、この町を有名にしたのが真岡木綿です。文化・文政・天保のころが最盛期で、年間三十八万反を生産し、江戸の問屋の木綿の仕入れの八割が真岡木綿だったといいます。「丈夫で質がよく、絹のような肌ざわり」。尊徳が桜町にいた時期と、真岡木綿の最盛期は重なります。
そして慶応四年、真岡は騒動に巻き込まれます。真岡市の記録によれば、真岡三町内で打ちこわしが起き、山内代官は逃亡。新政府軍が真岡陣屋に乱入して代官と手付四名を斬り、陣屋を焼きました。この件は市の記録が唯一の出典で、月日も記されていません。鵜呑みにはできませんが、書き留めておきます。
【場所・アクセス・地図】

