【藩名】
大久保藩
【説明】
天和2年(1682年)2月、郡山藩で起こった九・六騒動の張本人の一人「本多政利」は幕府からその責を問われ、6万石の内3万石を返還した上で新たに3万石が加えられるという形で播磨国明石藩に移封されました。
その地で過酷な政治を行い、また巡検視への対応も粗雑だったことを咎められ、6万石から大久保1万石に移封されて大久保藩を立藩することになります。政利はここで藩政の再建を図ったが、年貢率は幕領(天領)だった時代よりも高く、賦課は倍に、その上夫金が新たに取り立てられていました。これら行政上の不届きにより元禄6年(1693年)6月に改易され、政利は庄内藩の「酒井忠真」預かりの身となりました。大久保藩は廃藩となります。
【殿様が一度も来なかった大名領】
まず場所を正しておきます。この大久保は陸奥国岩瀬郡大久保村、いまの福島県須賀川市大久保です。当サイトは埼玉県として扱っていましたが、誤りでした。お詫びして訂正します。
天和二年(1682年)二月、本多政利が一万石で立藩し、大久保村の字宿に陣屋が置かれました。ところが政利は一度も領地に入らず、江戸の藩邸で暮らしています。そのため陣屋町も形成されませんでした。
そして元禄六年(1693年)六月、行状が改まらず、罪のない女性奉公人を殺害した事件によって改易となります。庄内藩、のち岡崎藩の預かりとなり、宝永四年に岡崎で没しました。十一年のあいだ一度も領地を踏まず、江戸屋敷で人を斬って藩を失ったことになります。
元禄十三年(1700年)、松平頼隆が陸奥岩瀬郡と常陸国内で二万石を与えられ、長沼に陣屋を置いて長沼藩が成立します。大久保村などはその領地となりました。この松平家はのちの常陸府中藩で、所領の大半が陸奥にあったため長沼にも陣屋を置いていました。したがって幕末の大久保村は常陸府中藩の陸奥飛地、長沼陣屋の支配だったとみられますが、村単位での確証は取れていません。
須賀川一帯は奥州街道屈指の宿場町として栄えた土地です。松尾芭蕉が『おくのほそ道』で八日間滞在したことでも知られます。慶応二年に白河藩主が転封となってからは、白河藩領は二本松藩の預かり地となりました。そして明治元年、須賀川地方は戊辰戦争で大きな打撃を受けています。
大久保陣屋の跡について、自治体の公式な記載は確認できませんでした。そもそも藩主が入部せず陣屋町もできなかったので、残るものが乏しいのだろうと思います。近隣の長沼城址には本丸・二の丸・三の丸の跡、土塁や堀の跡が残ります。
【大久保藩・場所・アクセス】
【大久保藩地図】

