田中久重とは何をした人物か—からくり儀右衛門と呼ばれた男が、佐賀藩で蒸気船を走らせるまで

朝の光のなか、造船所の岸から木造の外輪蒸気船を見上げる男(イメージイラスト)

田中久重(たなか ひさしげ)は、からくり人形の職人として世に出て、晩年に佐賀藩で蒸気船を走らせた技術者です。嘉永四年に万年自鳴鐘を作り、その二年後に佐賀藩の精煉方へ招かれ、慶応元年の凌風丸に関わりました。明治八年に銀座で開いた店が、のちの東芝になります。

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久留米の鼈甲細工師の家に生まれました

寛政十一年二月十八日、筑後久留米の城下町、通町十丁目の生まれです。父は田中弥右衛門といい、鼈甲細工を家業にしていました。幼名は久留米市の資料のなかでも岩五郎と岩次郎の二通りが見られ、どちらとも決めかねます。

鼈甲細工は、熱と圧で甲羅を貼り合わせ、削り、磨いて形にする仕事です。材料の癖を手で読む商売の家に育ったことは、のちの仕事に効いているはずです。生まれた藩については「久留米藩」で扱っています。

五穀神社の祭礼で、からくりの屋台を出していました

少年のころから仕掛けものに夢中で、久留米の五穀神社の春と秋の祭礼に、からくり人形の屋台を出して評判をとりました。得意にしたのは「水からくり」です。水の重さと落ちる力を動力に使う仕掛けで、人形を動かします。

文政のころには「弓曳き童子」や「文字書き人形」を作っています。弓曳き童子は、矢を手に取り、つがえ、狙いを定めて射ます。「からくり儀右衛門」という通り名は、このころの評判から来ています。

大坂と京都で、無尽灯と万年時計を作りました

天保五年、三十代の半ばで大坂の船場へ移ります。天保八年には「無尽灯」を考案しました。圧縮した空気で灯油を押し上げて燃やし続ける照明で、行灯よりはるかに明るく、長くもちました。

その後、京都へ移ります。弘化四年に「近江大掾」の称号を受け、嘉永三年には須弥山儀を作りました。仏教の世界観を機械で表した天文儀です。そして嘉永四年、万年自鳴鐘が完成します。この時計そのものについては「万年自鳴鐘とは何がすごいのか」で詳しく書きました。

嘉永六年、佐賀藩に招かれました

ペリーが浦賀へ来た嘉永六年、久重は佐賀藩に招かれます。前年の嘉永五年、佐賀藩は精煉方という技術部門を立ち上げていました。いまでいえば理化学の研究所にあたる役所です。

声をかけたのは精煉方の主任だった佐野常民とされます。藩の外から腕のある技術者を引き抜いてくる形でした。久重は長崎海軍伝習所にも伝習生として入り、西洋の機械を実地で見ています。五十代の半ばで、新しいものを見に行ったわけです。

精煉方で何を作ったのか

蒸気機関の研究と製造、洋式の大砲と小銃の国産化が主な仕事でした。射程二キロ半を超える鉄製のカノン砲の製造にも成功したとされています。

佐賀藩精煉方が作った「蒸気車雛形」と「蒸気船雛形」は、いまも佐賀市の徴古館に伝わり、佐賀県の重要文化財に指定されています。製作は安政二年。ただし文化財としての公式記録に、製作者として久重の名は書かれていません。精煉方という組織の仕事として記録されています。久重の作と紹介されることは多いのですが、ここは分けて書いておきます。

なお久留米市の資料は、久重が万年自鳴鐘の翌年にあたる嘉永五年に、外輪式とスクリュー式の蒸気船模型を各一隻作ったとしています。これは佐賀へ行く前の話で、安政二年の精煉方の雛形とは別のものです。

慶応元年、凌風丸が走りました

慶応元年、佐賀藩の三重津で凌風丸が完成します。木造の外輪蒸気船で、日本で最初に実用になった国産蒸気船とされます。久重はその中心にいた一人でした。

三重津海軍所の跡は、いまも船渠の遺構が残り、世界文化遺産「明治日本の産業革命遺産」の構成資産になっています。佐賀藩が持っていた船については「電流丸」もあわせてどうぞ。

アームストロング砲については、慎重に書いておきます

佐賀藩がアームストロング砲を国産化し、上野戦争で使ったという話は広く知られています。久重がそこに関わったとも語られます。

ただ、この通説には近年の研究で疑問が出されています。令和六年から始まった科学研究費の研究課題は、佐賀藩が本当にアームストロング砲を模造したのかを、当時の金属加工の技術水準から検証し直すものです。久重と蘭学者の石黒直寛が果たした役割も、検証の対象に入っています。

久重が洋式の大砲と小銃の製造に携わったことは確かです。ただアームストロング砲については、研究が決着するまで断定を避けておきます。同じ時期に別の土地で進んでいた取り組みは「【現地取材】韮山反射炉と江川邸を歩く」で見られます。

久留米に呼び戻され、大砲を作りました

久重は郷里の久留米藩からも呼び戻され、製造所をいくつも立ち上げます。古飯田に工場を建てて青銅の大砲を作り、慶応二年にはそこで試射をしました。慶応三年には製鉄所を移して西洋式の小銃を作り、明治二年には南薫へ工場を移します。働き手は百人を超えました。

複雑な仕掛けの錠前「無伴の錠」のような、戦とは関係のない発明も残しています。大砲を作る合間に錠前を考える。この人の面白さはそういうところにあります。

明治八年、七十代の後半で銀座に店を開きました

明治六年の正月、久重は家族と弟子を連れて東京へ出ます。すでに七十代の半ばでした。電信機の製造から始めています。

明治八年七月一日、銀座の煉瓦街に店舗兼工場を構えました。日本で最初の民間の機械工場とされ、この日が株式会社東芝の創業日になっています。明治十一年には、ベルの電話機を参考に電話機を二台作りました。

明治十四年十一月七日に没します。八十三歳。久留米市の資料のなかには八十二歳とするものもあり、数えと満の違いと思われます。墓は東京の青山墓地にあります。事業は養子の二代儀右衛門が継ぎ、芝浦製作所を経て、いまの東芝へつながっていきました。

幕末という時代に、この人がいた意味

久重の経歴には、藩も身分も飛び越えてしまう軽やかさがあります。久留米の細工師の子が、大坂と京都で名を上げ、佐賀藩に雇われ、また久留米に戻り、最後は東京で会社を興す。幕末の技術は、藩ごとの壁の内側で進んだわけではありませんでした。腕のある人間が呼ばれて移り、そこで作る。そういう動き方で広がっています。

そしてもう一点。からくり人形と蒸気船は、まるで別の技術のように見えますが、久重のなかでは地続きでした。どちらも、動くものを設計して組み上げる仕事です。万年自鳴鐘で六つの文字盤を一本の軸から動かした人が、十数年後に船を動かしている。無理のない道筋だったのだと思います。

訪ねるなら

  • 久留米市通町十丁目の生誕地。記念の碑が立っています
  • 五穀神社(久留米市)。からくりの屋台を出した祭礼の場です
  • 徴古館(佐賀市松原)。蒸気車雛形と蒸気船雛形が伝わります
  • 三重津海軍所跡(佐賀市川副町)。凌風丸が生まれた場所で、世界文化遺産の構成資産です
  • 国立科学博物館(東京都台東区上野公園)。万年自鳴鐘の現物が寄託されています。展示には入れ替えがあるので、行く前にご確認ください

あわせて読みたい

参考にした資料

  • 久留米市 文化財収蔵館、久留米市史編さん資料(歴史ウォーク、ストーリーシート)
  • 佐賀市 精煉方に関する資料、佐賀県 幕末維新紀行
  • 佐賀大学学術リポジトリ 佐野常民と精煉方に関する論文
  • 文化庁 文化遺産オンライン「蒸気車雛形」「蒸気船雛形」
  • 公益財団法人鍋島報效会 徴古館 収蔵品
  • 日本機械学会 機械遺産、東芝の社史資料
  • 科学研究費助成事業データベース「幕末佐賀藩における、いわゆるアームストロング砲模造の実態解明」
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