【藩名】
壬生藩
【説明】
幕末期、壬生藩では尊皇攘夷をめぐっての争いが絶えず、文久2年(1862年)には勤王派が主導権を握って保守派の江戸家老「鳥居志摩」が失脚の上、自刃させられました。元治元年(1864年)に水戸藩で「天狗党の乱」が起こると、今度は保守派が力を盛り返して勤王派を退けるなど、藩内は二分して大混乱しました。

戊辰戦争では新政府につくか、幕府側に与するかで混乱する中、土壇場で新政府軍に与して旧幕府軍と戦いました。
明治4年(1871年)の「廃藩置県」で壬生藩は廃藩となり、その後壬生県を経て栃木県に編入されました。
壬生藩の成り立ち
壬生城は、戦国時代には宇都宮氏の重臣・壬生氏の居城だったが、小田原征伐で北条方についた壬生氏が没落したのち、徳川の支配下に入りました。江戸時代の壬生藩は、慶長七年(一六〇二)、信濃高島から日根野吉明が一万九百石で入って立藩したことに始まります。下野国都賀郡壬生、日光へと至る街道筋の要地に置かれた城下町でした。
めまぐるしく替わった藩主たち
壬生藩は、初期には藩主家が次々と交代しました。日根野氏のあと、寛永十二年(一六三五)に阿部忠秋が二万五千石で入るが、四年で武蔵忍へ転じ、代わって寛永十六年(一六三九)、三浦正次が下総矢作から入封しました。三浦家は三代五十年あまり壬生を治めたのち、元禄五年(一六九二)に大河内松平家の松平輝貞、続いて加藤明英・明矩が入ります。そして正徳二年(一七一二)、近江水口から鳥居忠英が三万石で入封し、以後は幕末まで鳥居家八代がこの地を治めました。城主がめまぐるしく替わったのは、日光社参の要地という壬生の重みの裏返しでもありました。
鳥居家 ― 「三河武士の鑑」元忠の子孫
壬生に腰を据えた鳥居家は、徳川譜代のなかでも特別な由緒を持つ家でした。その祖・鳥居元忠は、関ヶ原の戦いの前哨戦で伏見城に籠もり、圧倒的な大軍を相手に玉砕して主君・家康のために貴重な時を稼いだ、「三河武士の鑑」とうたわれる忠臣です。その血を引く鳥居家は、徳川の恩義を誰よりも深く背負った家柄でした。幕末、壬生藩が去就に苦悩することになるのも、この出自を思えば当然のことでした。
江戸期のできごと ― 日光西街道と学問の芽
壬生を通る日光西街道(壬生通り)は、将軍が日光東照宮へ社参する道であり、藩はその要衝を預かりました。将軍が社参の帰路に壬生城で宿泊するのが通例だったとも伝わります。鳥居忠英は正徳三年(一七一三)、藩校「学習館」を創設しました。これは下野国で最初の藩校であり、全国的にも早い時期のものです。幕末に近い嘉永年間には、藩医・斎藤玄昌が下野で初めて種痘(牛痘)を実施するなど、蘭学・医学の芽も育っていました。剣術では、神道無念流の祖・福井兵右衛門が壬生の出であり、藩士たちは江戸の練兵館で腕を磨いたと伝わります。
幕末の壬生藩 ― 藩を二分した抗争
幕末、小さな譜代藩・壬生も、時代の大波に激しく揺さぶられました。文久二年(一八六二)には勤王派が主導権を握り、保守派の江戸家老・鳥居志摩を失脚させて自刃に追い込みます。ところが元治元年(一八六四)、隣国の水戸で天狗党の乱が起こると、今度は保守派が盛り返して勤王派を退けました。壬生の尊攘派は一時、筑波に挙兵した天狗党に接触して資金を援助したが、幕府の討伐命令が下ると立場を失い、藩兵はむしろ天狗党の鎮圧に動員されました。藩論は二転三転し、城下は大混乱に陥ったのです。
土壇場の恭順と、その後
戊辰戦争が北関東に及ぶと、壬生藩は最大の選択を迫られます。徳川譜代としての恩義か、時代の趨勢か――藩は土壇場で新政府軍への恭順を決断し、藩主の病を理由に弟を京へ送って恭順の意を示しました。壬生城は新政府軍の拠点となり、大鳥圭介・土方歳三ら旧幕府軍と、宇都宮や安塚などで激しく戦いました。地元の有志も「利鎌隊」「蒼龍隊」を組織して従軍しています。明治四年(一八七一)の廃藩置県で壬生藩は幕を閉じ、壬生県を経て栃木県に編入されました。最後の藩主・鳥居忠宝は隠居後、製茶業「共産社」を営んで数百人を雇い、地域の殖産にも尽くしたと伝わります。
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