坂本清次郎(坂本家養子) 宛
| 原文 |
| 追白す。明朝より大坂へ下り小野惇助に謀り其上長崎行を思ひ立候得は蒸気の船便両三日中に在之候。又出崎仕候得ハ海援隊を□い候月棒を相談出可申とも存候。此儀御決心の彼ニも萬一故申さんかと婆心より申上候。敬白龍馬事楳太郎拝坂野先生 |
| 現代文 |
| 追伸明朝から大阪へ下り、小野惇助(高松太郎)と話しこの上長崎行きを思うのであれば蒸気船はここ3日中にある。また、長崎へ行けば海援隊の月棒を相談することが出来ます。わかっているとは思うが老婆心からこの内容の決心を再度申し上げました。龍馬事楳太郎(龍馬変名)坂野先生(坂本清次郎:坂本家養子) |
目次
この手紙について
「明朝から大坂へ下り、小野惇助(高松太郎)と相談します。長崎へ行くなら蒸気船が数日中に出ます。長崎へ行けば海援隊の月棒(給料)の相談もできります。分かっているとは思うが、老婆心から念を押す」という、身内の若者への助言を込めた手紙です。龍馬の変名「楳太郎(梅太郎)」の署名。
宛先「坂本清次郎」とは
坂本清次郎は坂本家の養子で、龍馬の甥にあたる人物です(のちの坂本直)。海援隊にも関わり、龍馬は彼の将来を気にかけていました。文中の小野惇助(高松太郎)も龍馬の甥で、海援隊士でした。
この手紙が書かれたころの龍馬の境遇
海援隊の運営者として、隊士の給与(月棒)の算段までしていました。身内の若者の進路にまで老婆心を働かせる、面倒見のよい叔父の顔がのぞきます。
幕末全体の動き(慶応年間)
海援隊は月給制で隊士を雇う、当時としては近代的な組織でした。志と実務を兼ね備えた集団だったのです。
土佐藩の当時の動き
龍馬の甥たちも海援隊に加わり、坂本家の若い世代が新しい時代へと踏み出していました。土佐の血が、維新の現場に流れ込んでいました。
坂本龍馬の手紙139通(現代翻訳文)一覧

