総社藩の歩み
後北条氏の遺臣で徳川家の譜代家臣となった「秋元長朝」が一万石で入りました。長朝は地元の領民などの助力を得て総社に新城築城と城下町建設を計画しました。これが「総社町」の建設です。さらに新田開発や用水路の開削事業、検地などにも尽力し、藩の支配体制を早くから固めました。
寛永五年(1628年)八月二十九日、長朝は83歳で死去しました。跡を嫡子「秋元泰朝」が継ぎました。寛永十年(1633年)二月、泰朝は一万八千石で甲斐谷村藩に加増移封され、ここに総社藩は廃藩となり、その所領は高崎藩に預けられていた「徳川忠長」への小遣い料として「安藤重長」に与えられました。
廃藩のあと—去った殿様のために、百七十二年後に碑が建った
総社は上野国群馬郡、いまの群馬県前橋市総社町です。秋元長朝が関ヶ原の功で入り、利根川右岸の植野勝山に総社城を築きました。
この藩がしたことのうち、いちばん大きかったのは天狗岩用水です。慶長九年(1604年)に完成し、六千石だった総社を一万六千石余の土地に変えました。
寛永十年(1633年)に秋元泰朝が甲斐谷村藩へ移って廃藩となり、そのあとの総社は高崎藩領、旗本領、幕府領、沼田藩領と移り変わって、延享四年(1747年)から前橋藩領となりました。
ところがその前橋藩が、利根川の洪水で前橋城を捨てて川越へ移ってしまいます。およそ百年、総社は「川越にいる殿様の飛地」でした。文久三年(1863年)に再築と帰城が許され、慶応三年(1867年)に前橋城が再びできて、殿様が戻ってきます。戊辰戦争では前橋藩はいち早く新政府に恭順しました。
総社そのもので幕末に何が起きたかはわかっていませんが、この地は佐渡奉行街道の宿場町として栄え、当時の地割がいまも残ります。
そして忘れがたいのが「力田遺愛碑」です。天狗岩用水の完成から百七十二年たった安永五年(1776年)、領民が秋元氏を顕彰して建てました。秋元家が総社を去ってから百四十年以上たっています。藩が消えて百四十年後に、その殿様を讃える碑が領民の手で建てられた—そういう土地です。碑は県の史跡になっています。
総社古墳群は令和六年(2024年)に国の史跡に指定されました。蛇穴山古墳、宝塔山古墳、二子山古墳など五基から成ります。秋元家の菩提寺・光巌寺には歴代の墓地があります。
秋元長朝—北条の遺臣から譜代大名へ
総社藩を開いた秋元長朝は、もとは武蔵の深谷上杉氏に仕え、その主家が小田原の北条氏に従ったため、北条方の武将として戦国時代を生きた人です。天正十八年(1590)に北条氏が滅ぶと家康に召し抱えられ、慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いの前には、会津の上杉景勝のもとへ使者として赴いたとされます。戦後に総社で一万石を与えられ、旧敵の家臣から譜代大名へと立場を変えました。
総社を出た秋元家の、その後と幕末
総社から甲斐の谷村へ移った秋元家は、元禄時代の当主・喬知(たかとも)が老中となって武蔵の川越へ入り、のちに出羽山形を経て、弘化二年(1845)に上野の館林六万石に移りました。総社と同じ上野の国に、二百年あまりたって戻ってきたことになります。
幕末の館林藩主・秋元志朝(ゆきとも)は、長州藩の支藩・徳山藩の毛利家から養子に入った人でした。そのため長州藩と深いつながりを持ち、文久年間には朝廷と長州のあいだを取り持とうと動きます。ところが元治元年(1864)の禁門の変で長州が朝敵とされると、その縁をとがめられ、幕府から隠居を命じられました。長州藩とのつながりがあだとなった譜代大名だったのです。戊辰戦争では館林藩は新政府側につき、会津攻めなどに兵を出しています。総社に天狗岩用水を残した家は、幕末には長州と幕府のあいだで揺れ動く家になっていました。
日光東照宮の総奉行を出した家—総社藩の秋元家と天狗岩用水
諏訪頼水の時代
総社(いまの前橋市総社町)には、秋元家より前に信濃の諏訪頼水が文禄元年(1592年)から住んでいました。頼水は荒れた蒼海城を嫌って、城の北東に屋敷を建てて住んだと伝わります。秋元長朝が入ったのは慶長六年(1601年)です。長朝は小田原攻めのとき、前田利家・浅野長政の猛攻を見て深谷城を開き、町を戦火から守った人とされます。関ヶ原のあとは家康の命で会津へ行き、上杉景勝に降伏を勧めました。家格は譜代です。
天狗岩用水
長朝は新しく総社城を築き、利根川から水を引く天狗岩用水を開きました。白井藩の本多康重と交渉し、取水口を漆原村に置いています。用水は田畑を潤すだけでなく、城の外堀や宿場の防火にも使われました。工事中の巨石を天狗が取り除いたという伝説が名前の由来です。
泰朝—日光東照宮の総奉行
二代の秋元泰朝は家康の近習出頭人で、大坂冬の陣のあとの堀の埋め立てで手柄を立てました。寛永十三年(1636年)には日光東照宮の造営で総奉行を務めています。寛永十九年(1642年)、寛永の大飢饉の対策にあたっている最中に急死しました。泰朝の正室は大河内秀綱の娘で、知恵伊豆として知られる松平信綱の叔母にあたります。
古墳の上の墓所
秋元家の菩提寺・光巌寺の隣にある宝塔山古墳は、七世紀中ごろの方墳です。その墳頂に、初代長朝から十一代礼朝までの秋元家の墓所があります(前橋市指定史跡、JR群馬総社駅から徒歩約二十分)。藩が谷村へ移ったあとも、天明三年(1783年)の浅間山噴火のときには、秋元家が旧領に義援米を送ったとされます。古代の豪族の墓の上に、近世の大名が眠る。総社は、時代が重なり合う土地です。



