桂小五郎 宛(慶応三年六月十日) 坂本龍馬の手紙 原書と現代文翻訳

桂小五郎 宛

原文
一筆啓上仕り候。然るに天下の勢云々。さて─兼御心安キ─肥後庄村助右衛門、度々面会、大兄にお目にかかりたきよし。其故は云々──この間は石田栄吉よりくわしく申上げるお聞取りにてご返書願い奉り候。─〇なにとぞ、御思召しのほどお聞かせ願い奉り候。謹言。六月十日龍馬木圭先生才谷
現代文
一筆書かせて頂きます。天下の勢い云々です。さて、兼ねてからの仲の肥後の庄村助右衛門(熊本藩士)が度々面会にきて、大兄(木戸)に会いたいとのこと。その理由は云々(この部分は石田栄吉〈海援隊士〉から詳しく申し上げますので、お聞き取りのうえご返書をお願いします)。何卒お考えのことをお聞かせ下さいませ。6月10日龍馬木圭先生(木戸孝允)才谷(龍馬変名)

出典:原文は宮地佐一郎編『龍馬の手紙』(講談社学術文庫)によります。現代文は、運営者がこの原文をもとに独自に訳したもので、解説も運営者が書いています。

目次

この手紙について

「かねて親しい肥後の庄村助右衛門(熊本藩士)が、たびたび面会に来てあなた(木戸)に会いたいと言っています。詳しくは石田栄吉(海援隊士)から話させるので、聞いたうえで返事がほしい。お考えを聞かせてください」という、諸藩の人物を桂に引き合わせる周旋の手紙です。六月十日付、才谷の署名。龍馬が藩と藩の間を取り持つ「つなぎ役」だったことがよくわかります。

宛先「桂小五郎(木戸孝允)」とは

木戸孝允
木戸孝允(桂小五郎)(パブリックドメイン/Wikimedia Commons)

桂小五郎(木戸孝允)は長州の指導者で、のちに維新三傑と称されました。龍馬がもっとも頻繁に連絡を取り合った相手のひとりです。

この手紙が書かれたころ

薩摩・長州・肥後(熊本)・土佐と、藩を越えて人と人を引き合わせていた時期です。人脈の結節点そのものが、龍馬の果たした役割でした。倒幕へ向けて、雄藩どうしの提携づくりが進んでいました。人の紹介こそが、同盟工作の第一歩だったのです。海援隊士を使者に立てるなど、土佐の人材が諸藩周旋の実務を担っていました。龍馬の周りには、そうした働き手が集まっていました。

熊本藩士・荘村助右衛門を木戸へ引き合わせる一通

宮地佐一郎編『龍馬の手紙』では、この手紙は080番「慶応三年六月十日 木戸孝允あて」として収められています。手紙には「六月十日」としか書かれておらず、慶応三年という年は宮地による比定です。宮地の本の写真説明には「宮内庁 木戸家文書」とあり、受け取った木戸の家に伝わった一通です。宮地の比定どおりなら、龍馬が後藤象二郎とともに土佐藩の船「夕顔」で長崎を出た六月九日の、翌日の日付にあたります。

紹介されている「庄村助右衛門」は熊本藩の荘村助右衛門のことで、日本の聖公会で最初に洗礼を受けた人物として研究されています。宮地の本では「兼御心安キ(かねて親しい)」の語が行間に書き添えた形で示されています。用件は「其故ハ云々」とぼかしたまま、くわしい話は海援隊の石田栄吉に口で伝えさせる書き方で、紙に残すのは引き合わせの依頼だけにとどめています。

同じころの龍馬—船中八策

夕顔丸の上で この手紙の前日、慶応三年(1867)六月九日、龍馬は後藤象二郎とともに土佐藩の蒸気船・夕顔丸で長崎を発ちました。京都へ向かう船の中で、龍馬は新しい国のかたちを八か条にまとめたとされます。政権を朝廷に返すこと、上下二つの議政局を置くこと、優れた人材を登用すること、外国との交際を改めること、法を定めること、海軍を広げること、御親兵を置くこと、金銀の相場を外国とそろえること――のちに「船中八策」と呼ばれるものです。

宛名の桂小五郎 長州の桂(木戸孝允)は、薩長同盟以来の龍馬の盟友でした。武力で幕府を倒す道を考えていた長州にとって、土佐が大政奉還へ向かう動きは気がかりなものでもありました。

慶応三年六月、京都へ向かう龍馬と土佐藩

夕顔での上京

いろは丸の談判を終えた龍馬は、六月九日、土佐藩参政の後藤象二郎とともに、土佐藩の船・夕顔で長崎を発ちました。京都へ向かう船の中で、龍馬が新しい国の形を後藤に示したのが「船中八策」だと伝えられます。ただし近年は、船中八策は後世にまとめられたものとみる説が有力です。手紙を託された海援隊士・石田英吉は、土佐出身の医家の生まれで、天誅組の変にも加わった人物です。

土佐へ帰った容堂

この六月の初め、山内容堂は京都を離れ、乾退助を伴って土佐へ帰りました。四侯会議が将軍慶喜に押し切られて成果を上げられず、容堂は京都の政局から身を引いた形です。代わって京都で土佐藩の舵を取ることになったのが、龍馬とともに上京した後藤でした。六月二十二日、後藤は薩摩と盟約を結び、大政奉還の建白に向けて動き出します。

熊本藩と龍馬

手紙で龍馬が木戸に引き合わせようとしている荘村助右衛門は、熊本藩士です。熊本藩は幕末を通じて幕府寄りの姿勢が強い藩でした。そうした藩の中にも、長州と通じようとする人がいたことが、この手紙から分かります。龍馬は、立場の違う藩の人びとを結びつける役を、ここでも引き受けていました。

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