伊藤助太夫 宛
| 原文 |
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此溝渕広ハ一日も早く長崎にかへし申度、されバ船の事ハ伊藤先生及洪堂兄等の御周旋可被遣候。筑前くろ崎まで船か、長崎まで船か、夫レハ広が心次第也。然るに用向がすめバ一日も止り候ハ、甚よろしからぬ事故、早々出船御セ話可被遣候。助太夫先生に御頼事、〇洪堂がよく知りておるけれども又記す。 一、長崎よりの船代、三十四両。 |
| 現代文 |
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溝渕広之丞(土佐藩士で龍馬の剣の同門)は1日も早く長崎へ送りたいと思います。船のことは伊藤先生(伊藤助太夫)及び洪堂(山本洪堂:海援隊士)らの周旋でお願い致します。筑前の黒崎(現在の北九州市八幡西区)まで船で行くか、長崎まで船で行くかは溝渕広之丞の気持ち次第です。そして、用向きが済めば一日も早く急ぎたいので、急いで出船をお世話して頂けないでしょうか?助太夫先生(伊藤助太夫:下関の豪商)に頼みたいこと。山本洪堂がよく知っておりますが改めて記載致します。 一、長崎からの船代、34両 |
出典:原文は宮地佐一郎編『龍馬の手紙』(講談社学術文庫)によります。現代文は、運営者がこの原文をもとに独自に訳したもので、解説も運営者が書いています。
この手紙について
下関の伊藤助太夫へ宛てた依頼の手紙です。同門の溝渕広之丞を一日も早く長崎へ送りたいので、船の手配を伊藤や海援隊士の山本洪堂らの周旋で頼みたいと願っています。筑前の黒崎まで船で行くか長崎まで行くかは本人の意向次第だが、用が済めば急ぎたいので早く出船を世話してほしい、と重ねて頼む、実務的で人情のこもった一通です。
宛先「伊藤助太夫」とはどんな人物か

下関の豪商で、龍馬と妻お龍が身を寄せた宿の主人でもありました。船や人の手配を通じて龍馬の活動を支え続けた、頼れる協力者の一人です。
この手紙が書かれたころ
下関と長崎を結ぶ人と船の流れを取り仕切っていたころの龍馬です。同志を適所へ送り、事を滞りなく運ぶための細かな段取りまで、自ら手を配っていました。長州征伐が終わり、倒幕へ向けて人と物の往来がいっそう活発になっていました。船による移動が、志士たちの活動の生命線となっていた時代です。土佐を離れた龍馬は、下関の商人や海援隊の仲間に支えられて動いていました。こうした協力の網が、やがて土佐藩をも動かす龍馬の力の源となっていきます。
筑前黒崎か長崎か、船代三十四両を四つに割った勘定
宮地佐一郎は、日付が「廿日」だけのこの手紙を慶応二年十二月二十日と比定しています。宮地の本で前後の手紙をたどると、龍馬は十一月十六日付で長崎の溝渕広之丞に騎銃の入手を頼み、十二月十五日付の木戸孝允あての追伸では「伊藤助大夫ニとまり居申候」と、下関の伊藤家に滞在していることを伝えています。文中の「くろ崎」は筑前の黒崎で、福岡県立図書館の解説によれば、長崎街道の筑前六宿の一つにあたる宿場です。現在の北九州市八幡西区にあたります。
後半の勘定は、船代三十四両と溝渕・龍馬の出した金を合わせた額を四つに割り、一つ分を大村の村瀬が負担し、手元に金のない洪堂は出さず、残りを溝渕と龍馬で折半するという段取りです。ところが龍馬にも持ち合わせがなく、自分の分の立て替えを伊藤に頼み、「空袋の諸生」と自らを笑って結んでいます。年が明けた正月三日付の木戸あての手紙では、宿が阿弥陀寺の伊藤助太夫方に決まったことを知らせています。
同じころの下関—年の瀬の伊藤家
下関では 慶応二年(1866)の暮れ、下関は四境戦争の勝利に沸く長州の玄関口でした。対岸の小倉藩領はまだ長州の兵に押さえられており、関門海峡には長州の軍艦や商船が行き交っていました。下関の本陣・伊藤家の当主、伊藤助太夫は、こうした下関で龍馬の拠点づくりを支えた人物です。
この五日後 この手紙の五日後の十二月二十五日、京都で孝明天皇が亡くなりました。翌年の正月には十六歳の新しい天皇が位を継ぎ、政局は大きく動き出します。龍馬が伊藤家の一室に「自然堂」と名づけた住まいを構えるのも、この翌年の初めのことです。
坂本龍馬の手紙139通(現代翻訳文)一覧



