高崎藩/大河内松平家8万2千石:松平輝聲 早くから新政府へ恭順し明治を迎えた高崎藩

【藩名】
高崎藩

【説明】
安政6年(1859年)12月15日、高崎藩主「大河内輝声」は将軍「徳川家茂」に拝謁します。万延元年(1860年)8月24日、家督を継ぎ、文久2年(1862年)12月11日には従五位下右京亮に叙任されます。元治元年(1864年)に勃発した「天狗党の乱」鎮圧を命じられ、11月16日に下仁田で天狗党と交戦するが36名の死者を出して高崎藩は敗走しました。

高崎藩/場所・アクセス・地図 大河内松平家8万2千石:松平輝聲【幕末維新写真館】

慶応2年(1866年)、藩政・軍政の近代化を始め、農兵を募って「強心隊」を結成しました。その後は「甲府城代」を命じられ慶応3年(1867年)9月6日には奏者番に就任しました。同年10月29日、陸軍奉行並に就任し慶応4年(1868年)1月20日に辞任します。

同年4月には新政府に拝謁するため上洛し、慶応4年(1868年)4月には旧幕府との縁を切るため松平姓を改め、本姓の「大河内」に復します。早くから新政府軍に恭順していたことで懲罰を逃れ明治を迎えました。明治2年(1869年)、版籍奉還により高崎藩知事に任ぜられます。明治4年(1871年)には「廃藩置県」を受けて高橋藩は廃藩となります。その後、大学南校で英語を学び東京に英学校を設立しました。

目次

天狗党と正面から戦った藩——下仁田戦争

高崎藩の幕末を語るなら、まず下仁田戦争です。元治元年十一月十六日(一八六四年十二月十四日)、西上する水戸天狗党およそ千人を、幕府の追討命令を受けた高崎藩兵が甘楽郡下小坂村(現在の下仁田町)で迎え撃ちました。

高崎藩は六百人を四隊に分け、一隊を城の守りに残して三隊を出しています。実際に戦ったのは一番手百九人、二番手九十二人。数のうえで劣るうえ、天狗党の三面からの奇襲を受けて敗れました。

高崎藩の戦死者は三十六名にのぼります。討死が二十七人、引き揚げ途中に絶命した者が二人、そして捕らえられて処刑された者が七人。負傷者は十一名でした。捕虜となった七名は青岩河原で首を斬られています。天狗党側の戦死者は四人とも十二人とも伝えられ、諸説あります

下仁田町下小坂には「高崎藩士戦死の碑」が建ち、下仁田戦争跡は町の指定文化財になっています。藩主の言葉として、自分の家来は小者に至るまで徳川家と運命を共にする、という一句が伝えられます。

そして小栗上野介の捕縛へ

徳川と運命を共にすると言った藩が、その四年後には新政府の側で幕臣を捕らえます。

慶応四年閏四月四日、東山道軍の軍監に率いられた高崎・安中・吉井の三藩の兵が、上野国権田村の東善寺にいた小栗上野介忠順を捕縛しました。小栗は閏四月六日の朝、烏川の水沼河原で斬られます。裁判もありませんでした。現地は高崎市倉渕町水沼、市の指定史跡「小栗上野介忠順終焉の地」となっています。

その後、高崎藩は北越や会津にも兵を出しました。天狗党と戦い、小栗を捕らえ、東北へ出兵する——幕末の四年で立場が二度変わったことになります。

藩主家と、現存する二つの城郭建築

高崎藩の松平家は「知恵伊豆」松平信綱の一族にあたる大河内松平家で、江戸城の伺候席は雁間。松平輝高が老中首座まで昇った家柄です。幕末の藩主は松平輝聴(在任一八四六〜六〇)、次いでその跡を継いだ大河内輝声。輝声は慶応四年に松平姓を改め、本姓の大河内に復しています。維新後は東京で英学校を開き、清国の公使らとの筆談による交流でも知られました。

高崎城には乾櫓東門が残ります。乾櫓は群馬県指定重要文化財で、県内に現存する唯一の城郭建築です。維新後に払い下げられて近郊の農家の納屋になっていたものを、昭和五十二年に城址へ移築して復元しました。東門も高崎市の指定で、下小鳥町に移されていたものを昭和五十五年に戻したものです。ほかに三の丸の土居と堀が残っています。

高崎藩は銚子に飛地を持ち、飯沼陣屋を置いて幕末の沿岸警備にあたりました。跡地はいまの銚子市立陣屋町公園です。藩校は遊芸館、のちに文武館と改めました。爵位は子爵ですが、輝声は華族令の前に世を去っており、叙爵されたのは子の大河内輝耕です。

▼ 高崎藩兵が捕らえた幕臣のその後はこちら
小栗忠順はなぜ斬られたのか——幕末最後の勘定奉行、取り調べなき処刑と村人が取り返した首

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