印藤聿 宛
| 原文 |
| 一筆啓上仕候。然ニ私十一月廿四日浪華出帆、同廿六夕上の関ニつき申候。夫より今日下の関ニ参り其ま〃御とゞけ申上候。いづれ拝顔の上万々。謹言十二月三日龍馬聿大兄足下印藤様直陰 |
| 現代文 |
| 一筆書かせて頂きます。私は11月24日に大阪を出港し、同26日夕方に上関(山口県)に着きました。今日は下関に来ていて、手紙を届けにきました。いずれまた会いましょう。12月3日龍馬印藤聿様へ(長府藩士)龍馬より |
出典:原文は宮地佐一郎編『龍馬の手紙』(講談社学術文庫)によります。現代文は、運営者がこの原文をもとに独自に訳したもので、解説も運営者が書いています。
この手紙について
「十一月二十四日に大坂を出港し、二十六日夕に上関へ着きました。今日は下関に来ている」と、自らの旅程を知らせる手紙です。十二月三日付。龍馬が上方と下関を海路で頻繁に往復していた様子が、具体的な日付とともに生き生きと残されています。海の上こそが龍馬の活動の舞台だったことがよくわかります。
宛先「印藤聿」とは

印藤聿(いんどう いつ)は長府藩士で、龍馬の下関での協力者・連絡役をつとめた人物です。西国での龍馬の活動を地元で支えた、心強い味方でした。
この手紙が書かれたころ
大坂と下関を船で行き来し、諸藩のあいだを駆け回っていた時期です。長い航海の合間に、地元の同志へ近況を知らせる筆まめな一面もうかがえます。上方と長州を結ぶ海路は、政局の情報と人が行き交う大動脈でした。龍馬はその海路を自在に使いこなしていました。土佐を離れた龍馬は、上方と長州を結ぶ独自の立場を築いていました。やがて土佐藩もその動きを頼りにするようになっていきます。
慶応元年の暮れ、長府藩の友へ
宮地佐一郎編『龍馬の手紙』はこの一通を慶応元年十二月三日のものとし、宛名を「印藤肇」と書いています。原本は長府博物館の所蔵とされます。十一月二十四日に大坂を船で出て、二十六日の夕方に周防の上関へ着き、この日に下関へ来たので知らせる、会ったうえで万事話したい—という内容です。
印藤聿は長府藩の藩士で、この手紙のひと月あまり後、慶応二年の正月に龍馬が薩長同盟のため京都へ向かうとき、長府藩の三吉慎蔵が同行したのは印藤の口ききによるものでした。三吉はそのまま京都で龍馬と行動をともにし、伏見の寺田屋で幕吏に襲われたときにも一緒にいました。この手紙は、その流れが始まる直前に、龍馬が長府藩との足場を確かめていた一通ということになります。竹島へ渡る計画を龍馬が打ち明けた相手も、この印藤でした。
同じころの日本—慶応元年の暮れ
世の中では 慶応元年(1865)十一月から十二月にかけて、幕府は大目付の永井尚志らを広島へ送り、長州藩の使者を呼び出して処分の受け入れを迫っていました。長州は表向き恭順の姿勢を見せながら、時間を稼いで戦いの準備を進めます。十二月には薩摩の黒田清隆が下関を訪れて桂小五郎(木戸孝允)に上京を促し、桂は年末に下関を発って京都へ向かいました。翌年正月の薩長同盟へつながる動きです。
長府藩と龍馬 宛名の印藤聿は長府藩士で、下関を本拠に動く龍馬にとって頼りになる友人でした。長州藩の支藩である長府藩は下関の海に面しており、龍馬はこの町を足場に、長崎の亀山社中と長州とのあいだの取り次ぎを続けていました。
坂本龍馬の手紙を時代順に読む(一覧の28通目/全135通)
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印藤あての書状は、京都大学が画像で公開している
この宛先には、ありがたい手がかりがあります。京都大学附属図書館の貴重資料デジタルアーカイブに、印藤聿あての坂本龍馬書状が収められていて、画像が公開されているのです。
維新特別資料文庫に属する巻子本一点で、四通が合装されています。内訳は慶応元年十月十二日、慶応元年十二月二十九日、慶応二年二月三日、慶応三年三月六日。ただし形態は「写」で、原本ではなく写本です。寸法は三十二センチ×二百九十六センチ。画像は所蔵を表示すれば二次利用が自由とされています。
ここで気をつけたいのが日付です。このページの手紙は慶応元年十二月三日としていますが、京都大学の目録は十二月二十九日の一通を収めています。同じ一通を違う読みで比定しているのか、別の一通なのかは、両方の原文を見比べないと決められません。「十二月三日」は宮地佐一郎編『龍馬の手紙』の比定によります。
京都大学の解題が書いている、同じころの内容
京都大学の解題は、慶応元年十二月二十九日の書状について、龍馬が下関に滞在中に書いたものとし、内容を次のように説明しています。
- 汽船乙丑丸の契約改訂の状況
- 木戸孝允の上京を報じ、龍馬自身も慶応二年の正月早々に上京するので同行の士を求めること
- 両藩の折衷案を作り、十二月に六箇条の契約を締結させた経緯
そして同館はこれを薩長融和推進の重要な局面を示す史料と位置づけています。慶応元年の暮れに龍馬が印藤へ書き送っていたのは、船の契約という実務と、薩長のあいだの政治という、二つが一つになった話でした。「下関の商いの話か、薩長の連絡か」という二択ではないわけです。
印藤聿という人について分かっていること
正直に書くと、この人については分かっていることが少ないです。
京都大学の解題は印藤聿を長府藩士とし、山口県立山口図書館の資料展示解説は長州藩士で伊藤家との関係者、三吉慎蔵と龍馬の仲介役としています。長府藩は長州藩の支藩ですから矛盾ではありませんが、史料に即しているのは「長府藩士」でしょう。高知県立坂本龍馬記念館は企画展「龍馬と長府藩」で、印藤聿を龍馬が心から信頼した友人として挙げています。
一方、生没年、具体的な役職、墓所、顕彰のいずれもわかっていません。名の読みも公的資料では分からず、「聿」の字についても、翻刻によっては「肇」とするものがあります。下関の実務と薩長のあいだを龍馬とともに動いていた人が、名の読み方すら定まらないまま伝わっているということです。
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