水戸城:幕末には天狗党の乱が勃発した徳川御三家の一つ水戸城【お城特集 日本の歴史】

水戸城は茨城県水戸市三の丸にあった徳川御三家の城です。
正確な築城時期は定かではないものの平安時代に「馬場資幹」により築かれたと言われています。

水戸城:幕末には天狗党の乱が勃発した徳川御三家の一つ水戸城【お城特集 日本の歴史】

この頃はまだ「馬場城」と呼ばれていました。1416年(応永23年)、江戸通房に城を攻められ落城し、以降江戸氏が城主となり戦国時代を生き抜きます。常陸の国で佐竹氏が勢力を伸ばしてくるとしばらくはこれに従うが度々佐竹氏と対立していました。

天正十八年(1590年)、豊臣秀吉が小田原征伐の号令をかけると常陸の国では「江戸重通」は北条氏政・氏照に味方し、「佐竹義重」は秀吉に従い北条攻めに加わりました。

水戸城:幕末には天狗党の乱が勃発した徳川御三家の一つ水戸城【お城特集 日本の歴史】

北条氏が豊臣秀吉に降伏すると常陸一国は佐竹氏に与えられ、義重・義宣親子は江戸氏の馬場城を攻撃し敗走させました。この戦に勝利した佐竹氏は常陸一国を治めるためそれまでの太田城から馬場城へ入城し、城名も「水戸城」と改めました。

慶長五年(1600年)、徳川家康と石田三成との間で関ヶ原の戦いが勃発すると義宣は終始あいまいな態度だったため、出羽国秋田の久保田城へ移封となります。

※徳川斉昭像
水戸城:幕末には天狗党の乱が勃発した徳川御三家の一つ水戸城【お城特集 日本の歴史】

水戸城の城主には徳川家康の5男「武田信吉」、10男「徳川頼宣」、11男「徳川頼房」へと移り幕末まで徳川御三家の一つとしてこの地を治めました。

※徳川頼房像
水戸城:幕末には天狗党の乱が勃発した徳川御三家の一つ水戸城【お城特集 日本の歴史】

幕末には改革派の天狗党と保守派の諸生党に藩内が分かれ、しばし混乱が起こりました。元治元年(1864年)には「天狗党」が筑波山で挙兵し「天狗党の乱」が起こりました。この藩内抗争は明治維新まで続き、明治元年(1868年)十月には水戸城下で戦闘が行われ、弘道館に立て籠もる諸生党を天狗党が攻撃し、城内の多くの建物が焼失しました。

水戸城:幕末には天狗党の乱が勃発した徳川御三家の一つ水戸城【お城特集 日本の歴史】

現在の水戸城跡には多くの学校が建っており、三の丸には水戸藩藩校であった弘道館が現存しています。

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御三家の城に、石垣が一段もありません

水戸城を歩いていちばん驚くのは、石垣が見当たらないことです。天守もなく、曲輪を区切るのは土塁と堀切だけ。水戸市教育委員会は「土造りの平山城としては国内最大級の規模」と説明し、茨城県教育委員会も「水戸城には、天守や石垣がなく」と明記しています。

土塁は粘土を強く突き固めて築かれ、一部には小さな礫を積んだ跡も確認されています。西側の台地には五重、東側の低地には三重の堀がめぐらされていました。石垣がない代わりに、櫓の一層目の下部を海鼠壁で覆っていたと伝わります。御三家の城でありながら、姫路や名古屋のような石の城とは思想がまるで違うわけです。

混同されやすいのですが、水戸城跡は国の史跡ではありません。「水戸城跡(塁及び濠)」が昭和四十二年十一月二十四日の県指定史跡、「水戸城跡」が平成二十八年一月二十九日の市指定史跡です。国指定は旧弘道館で、こちらは昭和二十七年三月二十九日の特別史跡にあたります。

門と櫓が、平成のあとに戻ってきました

現存する城の建物は薬医門ひとつだけです。建立は安土桃山時代の末、佐竹氏の在城期と考えられていますが、確実な資料はありません。市内で二度移され、昭和五十六年に県立水戸第一高等学校の敷地内、つまり本丸跡の付近へ移築復元されました。

復元されたものは二つあります。大手門が令和二年二月四日に完成・公開、木造二階建で高さ十三・三四メートル。二の丸角櫓と土塀が令和三年六月二十七日にオープンし、二階建の角櫓に北多聞櫓と東多聞櫓が接続するL字型で、天保年間の姿での復元です。角櫓は入場無料で公開されています。

大手門の復元には、平成二十一年に坂東市の古刹で「水戸城の城門と伝わる扉」が見つかって市に寄贈されたという経緯がありました。

弘道館の仮開館と本開館は、十六年離れています

弘道館は徳川斉昭の藩政改革の柱でした。仮開館が天保十二年八月一日、本開館が安政四年五月九日で、その間に十六年が空いています。現存する国重要文化財は正庁・至善堂・正門の三棟です。

至善堂は正庁の奥にあり、御座の間をはじめ四室からなります。藩主の休息所と諸公子の勉学所だった建物で、大政奉還ののち水戸へ下った慶喜は、幼いころを過ごしたこの至善堂にこもって謹慎生活を送りました。期間は明治元年四月から七月までのおよそ四か月です。将軍職を返した人が、少年時代の勉強部屋で静岡行きを待っていたことになります。

弘道館は二度焼けました。明治元年十月一日の弘道館の戦いで文館・武館・医学館が失われ、昭和二十年八月二日の水戸空襲で八卦堂・孔子廟・鹿島神社が焼けました。三階櫓が失われたのもこの空襲です。外観三層・内部五階という大型の櫓でした。正門の柱と玄関の舞良戸には、弘道館の戦いの弾痕がいまも残ります。

挙兵した人数が、資料によって十倍違います

元治元年三月二十七日の筑波山挙兵について、参加人数の記述は出典でまったく揃いません。茨城大学附属図書館の「水戸幕末争乱」は当初六十余人、数日で百五十人を超え、五月末に筑波山へ戻った時点で総勢およそ七百人とします。茨城県立歴史館は「千人以上を数えたといわれている」。別の資料は六十二人です。総師は町奉行の田丸稲之衛門で、指導的な役割を果たしたのが藤田東湖の四男・藤田小四郎でした。

四月三日、一行は東照宮参拝と称して日光山へ向かいますが、日光奉行に拒まれます。その後は下野の太平山に屯集し、五月に筑波山へ戻りました。十月には那珂湊付近で幕府追討軍に敗れ、榊原らの大発勢千人余りが投降。幕府から派遣されていた松平頼徳は、十月五日に幕命で切腹させられています。

反対していた人が、総裁として西へ向かいました

武田耕雲斎は、水戸市の説明によれば「藤田小四郎達のいわゆる天狗党の挙兵に対し、はじめこれに反対」していました。ところが那珂湊の戦いで窮地に陥ると、約千名を率いて上京し朝廷に陳情しようと動きます。十一月一日に大子を出立、下野・上野・信濃・飛騨を経て西へ向かいました。頼ろうとした一橋慶喜は、加賀・会津・桑名の兵四千を率いて討伐に向かう側でした。

十二月四日に蝿帽子峠を越えて越前へ入り、敦賀の新保で加賀藩に降伏します。降伏の日付は十二月十一日・十七日・二十日と資料が三つに割れています。人数は八百二十三名。はじめ加賀藩に預けられて丁重な扱いを受けましたが、幕府に引き渡されると、鰊粕を貯蔵する蔵十六棟に押し込められて罪人の扱いになりました。

処刑は慶応元年二月、敦賀市松島の来迎寺境内。人数は三百五十余人から三百五十三人まで資料に幅があります。松原神社はその人々を「正四位武田伊賀守以下四百十一柱」として祀り、境内には水戸の偕楽園から贈られた梅が植えられています。ニシン蔵のうち一棟は同じ境内に移されて水戸烈士記念館になりました。

なお武田耕雲斎の墓は水戸市見川にあり、管理は妙雲寺です。常磐共有墓地ではありません。混同されやすいので念のため。

水戸城の構造と、弘道館戦争

那珂川と千波湖に挟まれた城

水戸城は、東から下の丸・本丸・二の丸・三の丸を一直線に並べた連郭式の平山城です。北を那珂川、南を千波湖に守られた台地の上にあり、曲輪の間は深い空堀で区切られていました。石垣をほとんど使わず、土塁と空堀で守る土造りの城でした。

弘道館戦争

水戸藩では、幕末を通じて改革派(天狗党)と保守派(諸生党)が激しく争いました。戊辰戦争のさなかの慶応四年十月一日から二日にかけて、会津から戻った諸生党が水戸城に攻め寄せ、藩校・弘道館を舞台に戦いが繰り広げられます。この弘道館戦争で、弘道館と城内の建物の一部が焼けました。藩の中の争いは、明治を迎える直前まで続いていたのです。

場所・アクセス・地図

茨城県水戸市三の丸

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