村上城(本庄城)について
村上城は新潟県村上市にあった平山城で江戸時代以降、代々村上藩の藩庁があった城です。
戦国時代初期に本庄氏によって築城されたと言われています。

本庄氏は長尾氏・上杉氏に仕えてきたが「上杉謙信」が越後を統一すると、永禄十一年(1568年)本庄繁長は突然謙信に反旗を翻します。
繁長は約一年にわたり籠城し抵抗したがついに降伏し嫡男「顕長」を人質に差し出すことで許されました。慶長三年(1598年)、上杉景勝が会津へ転封になると「本庄繁長」もこれに従い会津へと移りました。

その後、越後を拝領した「堀秀治」の家臣「村上頼勝」が領主となり城も近代城郭へと改築されました。慶安二年(1649年)以降、村上城は城主が次々と変わっていく中、幕末時には内藤家が治めることとなります。
戊辰戦争では旧幕府軍派と新政府軍派に藩内が分裂し、抗戦を主張した家老の鳥居三十郎が藩士およそ200名を率いて庄内藩との国境へ退きました。城下では戦闘が起こらず、村上城は明け渡される形となりました。

そして、庄内藩兵と合流し新政府軍と羽越国境で交戦しました。村上城は明治三年に最後の藩主が破却を政府へ届け出て、明治八年までに石垣を除く建物と門がすべて取り払われました。

老中として幕政に関わった城主、内藤信親
幕末の村上藩は五万石の譜代で、城主の内藤信親は嘉永四年から老中として幕政の中枢に加わりました。文化九年に生まれ、明治七年に没した人物です。もっとも城そのものは寛文七年の落雷で天守を失ったまま再建されず、幕末の臥牛山には天守のない石垣と櫓が並んでいました。戊辰戦争のあと、信親は明治元年に新政府から罪を問われて謹慎を命じられます。
慶応四年八月の落城と、鳥居三十郎が選んだ開城
村上市の資料によりますと、慶応四年八月に新政府軍の攻撃を受けて村上城は落城しましたが、城下では戦闘が起こらず、町並みはそのままの形で残りました。家老の鳥居三十郎は抗戦派の藩士およそ二百名を率いて庄内との国境へ退き、城を明け渡す形をとったと伝わります。若い藩主内藤信民は恭順を唱えたものの藩論をまとめきれずに自害し、鳥居は戦後その責めを負って、明治二年に安泰寺で切腹しました。
石垣だけを残した破却と、平成五年の史跡指定
明治三年、最後の藩主内藤信美が村上県知事となって城郭の破却を政府へ届け出て、明治八年までに石垣を除く建物と門がすべて取り払われます。残された石垣は高さ八メートル近くに及び、戦国期の竪堀や虎口と江戸期の石垣が同じ山に混じり合う姿が評価されて、平成五年六月八日に国の史跡へ指定されました。村上市は平成十一年度から石垣の積み直しを進め、本丸出櫓台跡の工事を経て、いまは黒門跡の周辺を整えています。城下には藩士の住まいであった若林家住宅が残り、昭和五十二年に国の重要文化財となりました。
村上の鮭と「種川の制」
三面川の鮭 村上の城下を流れる三面川は、昔から鮭がのぼる川として知られていました。江戸時代の中ごろ、村上藩の藩士・青砥武平治は、鮭が生まれた川に戻ってくる性質に注目し、川の一部を仕切って鮭が卵を産む場所を守る「種川の制」を考え出しました。これは、世界で最も早い鮭の自然ふ化増殖の試みとされます。
鮭の町 この仕組みのおかげで村上藩は鮭の大きな収入を得ることができ、藩の財政を支えました。いまも村上は鮭の町として知られ、町には鮭の文化を伝える「イヨボヤ会館」があります。「イヨボヤ」とは、この地方の言葉で鮭のことです。
臥牛山の縄張りと、九家が入れ替わった城主
山上の石垣と、山麓の居館
村上城は、標高135メートルの臥牛山に築かれた平山城です。山上に本丸・二の丸・三の丸を置き、藩主の居館は山麓にありました。村上市の資料によりますと、本丸には三層の天守があり、寛文七年の落雷で失われるまで建っていました。
寛文元年から五年ごろには、松平直矩が山頂部を大きく改めています。このとき山上と山下で二十一の櫓が造り替えられたといいます。乾櫓・巽櫓・出櫓・玉櫓(月見櫓)などの名が伝わっています。門は御鐘門・四ツ門・一文字門などがあり、惣堀の内側に十六か所ありました。
石垣の多くは元和から寛永ごろに積まれたとみられます。最も高いのは本丸の多聞櫓跡の下で、約八メートルあります。戦国時代の竪堀や虎口が、江戸時代の石垣と同じ山に残っているのも、この城の見どころです。
村上頼勝から内藤家まで
江戸時代の村上は、城主の交代が多い土地でした。慶長三年に村上頼勝が9万石で入ったのが始まりです。その後は次のように城主が替わりました。
- 元和四年(1618年):堀直寄が10万石で入る。堀家は寛永十九年に断絶
- 正保元年:本多忠義
- 慶安二年:松平直矩(15万石)
- 寛文七年:榊原家
- 宝永元年:本多家
- 宝永六年:松平輝貞
- 享保二年:間部詮房
享保五年(1720年)に内藤家が5万石で入ってからは、廃藩まで九代にわたって内藤家の城となりました。戊辰戦争では、鳥居三十郎の率いた抗戦派が庄内藩兵と合流し、羽越国境の鼠ヶ関方面で新政府軍と戦っています。
県史跡から国史跡へ
城跡は、国の史跡になる前の昭和三十五年(1960年)に、新潟県の史跡に指定されていました。城下の藤基神社に残る石垣は、三の丸にあった飯野門の石垣の一部と考えられています。平成二十九年(2017年)には「続日本100名城」に選ばれました。
場所・アクセス・地図
新潟県村上市二之町



