福島県いわき市。いまはひとつの市ですが、江戸時代のこの地には、磐城平藩(安藤家)、湯長谷藩(内藤家)、泉藩(本多家)という三つの藩が並んでいました。慶応四年(1868)の戊辰戦争では、三藩はそろって奥羽越列藩同盟に加わり、海から上陸した新政府軍を迎え撃つことになります。
令和六年(2024)四月、この三藩の城と陣屋の跡を一日で回りました。大きな城と小さな陣屋。残り方もそれぞれ違う三つの跡を、現地の説明板を手がかりに紹介します。

この場所から、幕末はどう見えるか
- 文久二年(1862)—磐城平藩主で老中の安藤信正が、江戸城坂下門外で水戸浪士らに襲われて負傷。まもなく老中を退きます
- 慶応四年(1868)六月十六日—新政府軍の軍艦が平潟(現在の北茨城市)沖に現れ、上陸が始まります
- 同年六月末—新政府軍が北上し、泉・湯長谷の陣屋が相次いで攻略されます。六月二十九日には磐城平城への第一次攻撃
- 同年七月十三日—三度目の攻撃で、同盟軍は磐城平城に火を放って退き、城は焼け落ちます
- 戦後—三藩とも処分を受け、領地を減らされます
磐城平城—安藤家の城は、一か月足らずで消えた
説明板が伝える城の歩み
いわき駅の北側の高台に、磐城平城の跡があります。現地の「歴史のまちしるべ」には、城下の絵図とともに城の歩みがまとめられていました。

- 慶長七年(1602)、鳥居忠政が十万石で入り、翌年から築城を始める
- 元和八年(1622)、鳥居家は山形へ移り、内藤政長が七万石で入る
- 延享四年(1747)、内藤家は日向延岡へ移り、井上正経が六万石で入る
- 宝暦六年(1756)、井上家に代わって安藤信成が五万石で入る。以後、幕末まで安藤家の城となる
- 慶応四年(1868)、戊辰戦争で廃城
城を守ったのは藩主ではなかった
幕末の磐城平藩でもっとも知られるのは、老中として幕政を担った安藤信正です。桜田門外の変のあと、和宮の降嫁を進めて公武合体を推し進めましたが、文久二年の坂下門外の変で傷を負い、失脚しました。戊辰戦争のとき、信正はすでに隠居の身でしたが、藩は列藩同盟に加わり、仙台藩などの援軍とともに新政府軍と戦います。
平潟に新政府軍が上陸してから、城が焼け落ちるまで一か月足らず。七月十三日、同盟軍は自ら城に火を放って退きました。本丸の建物はこのとき失われています。

いまの城跡
本丸跡は立ち入りのできない区域になっていますが、周囲には石垣や土塁、水堀の名残があり、堀の一部は丹後沢公園として歩くことができます。高台から木の階段を下りていくと、木々に囲まれた細長い池が見えてきます。これが城の北側を守った堀の名残です。
湯長谷陣屋—映画の舞台になった一万五千石の小藩
湯長谷藩は、映画『超高速!参勤交代』の舞台になったことで知られる小さな藩です。陣屋跡は、いまは市立の中学校の敷地になっていますが、周囲に堀の跡が残り、説明板が立っています。

説明板から読み取れること
- 湯長谷陣屋は、初代藩主の遠山政亮(まさすけ)が延宝四年(1676)の御国入りのときに、下湯長谷村に陣屋と家臣屋敷を築くことを許されて建設を始め、翌延宝五年に完成した
- 陣屋は戦国期の館跡に築かれ、七十五間に八十間の単郭式の敷地を、土塁と幅二間の堀が囲んでいた。周囲にいまも堀跡が残る
- 天保九年(1838)の記録によれば、陣屋の周りに家臣の住まい、陣屋の下には町屋が三十軒あまりあった
- 陣屋の周辺には藩主の菩提寺・龍勝寺も置かれ、小規模ながら城下町の体裁をとっていた。天保十四年(1843)には藩校の致道館も開かれた
- 陣屋下町では毎年四月に馬のせり市が開かれていた
初代の政亮は内藤家の分家の出で、本家に遠慮して「遠山」を名乗ったといわれます。のちに内藤姓に戻り、湯長谷藩は内藤家が明治まで治めました。

戊辰戦争の湯長谷藩
湯長谷藩も列藩同盟に加わり、各地に兵を出しましたが、新政府軍に陣屋を攻め取られます。藩主の内藤政養は仙台へ逃れたのちに降伏し、戦後、一千石を減らされたうえで謹慎を命じられました。一万五千石の小藩が、城下の堀ひとつを残して歴史の表舞台から去っていったことを、草に覆われた堀跡が静かに伝えていました。
泉陣屋—「赤玉本多」の伝説が残る
いわき市泉町の住宅地の一角に、「泉城址」と刻まれた標柱と、陣屋の歩みを記した碑が立っています。泉藩本多家の陣屋があった場所です。碑は平成五年(1993)三月に地元の協議会が建てたものでした。

寛政の改革を支えた本多忠籌
泉藩本多家は延享三年(1746)に一万五千石で入り、二代目の本多忠籌(ただかず)のときに五千石を加えて二万石になりました。忠籌は藩の財政を立て直した手腕を松平定信に認められ、寛政の改革では若年寄、側用人を経て老中格にまで進み、幕政に加わっています。
泉城址には、その忠籌にちなむ「赤玉本多」の碑があります。碑文によると、忠籌は登城の際に二本の槍を行列の先頭に立てることを許され、そのうち一本の穂先に太陽をあらわす赤い玉を飾っていたそうです。朝日に映える赤玉は見事で、ほかの大名は遠くにそれを見ると、行列を道の脇に寄せて道を譲ったとも伝えられています。碑の上に載った赤い石の玉は、その槍飾りを表したものです。

戊辰戦争の泉藩
幕末の藩主・本多忠紀は寺社奉行や奏者番として幕政に関わった人物です。戊辰戦争では磐城平藩・湯長谷藩・仙台藩とともに新政府軍と戦いましたが、陣屋を失い、平城の落城後に降伏しました。戦後、忠紀は官位を奪われ、二千石を減らされたうえで隠居させられています。陣屋の裏門は市内に移されて残っているといわれます。
歩いてみて分かったこと
「小藩の戊辰戦争」が、一日で見て回れる
城を構えた磐城平藩と、陣屋を置いた湯長谷・泉の小藩。規模は違っても、三藩は同じ年、同じ夏に、同じ相手と戦いました。車なら半日ほどで回れる距離に、城と陣屋の跡が並んでいます。列藩同盟に加わった南奥州の小藩が、どのように戦い、どのように敗れたのかを、地図の上ではなく足で確かめることができる場所です。
残り方の違いに、その後の歴史が表れている
磐城平城は石垣や堀の一部が公園として残り、湯長谷陣屋は学校の敷地のまわりに堀が残り、泉陣屋は住宅地の中に碑だけが立っています。どの跡も、戦後の町づくりの中で姿を変えてきました。残されたわずかな堀や石碑を、地元の人たちが説明板や記念碑で守り伝えていることも、歩いてみて分かったことのひとつです。
訪ねるなら
- 磐城平城跡・丹後沢公園:福島県いわき市平。JR常磐線「いわき駅」の北側、徒歩圏。本丸跡には立ち入れません
- 湯長谷陣屋跡:いわき市常磐下湯長谷町。最寄り駅はJR常磐線「湯本駅」。陣屋跡は中学校の敷地のため、見学は堀跡と説明板のある周辺から
- 泉城址(泉陣屋跡):いわき市泉町。最寄り駅はJR常磐線「泉駅」。住宅地の中にあるので、静かに見学を
- 取材日:令和六年(2024)四月二十九日
三藩それぞれの歴代藩主や石高の移り変わりは、磐城平藩、湯長谷藩、泉藩の各ページで紹介しています。
あわせて読みたい(現地取材)
この記事の取材と情報源について
現地を訪ねて撮影した写真と、現地の説明板・記念碑(磐城平城跡「歴史のまちしるべ」、湯長谷陣屋の説明板、泉城址の「赤玉本多」碑)の記載をもとに書いています。史実にあたる部分は、あわせて公開されている文献資料で確認しています。
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